あれから10年が・・・(その5)

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3月 202014
 

(その1)
(その2)
(その3)
(その4)からのつづき

草創期のまえだんは、高々5年程度で、たちまちその活動はしぼんでしまった。しかし、その時の熱は、決して一気に冷め切ってしまうことはなく、新たな3人のキーマンを生み出し、団の再興へと駆り立てたのだった。

前のエントリで記したとおり、私が団のマネジメント責任者として、まず手がけたのは、以下の3項目であった。

 1.団規約の制定
 2.新規団員の外部からの募集
 3.パートの再編成

1.については、団の骨格となる成文法であり、音楽集団として必須のアイテムであることは論を待たぬ。2.についてだが、草創期のまえだん構成団員は、おおむね、当時の団長を中心とする人脈で形作られていた。近しい周辺人物から始まって、知り合いの知り合いの知り合いくらいくらいまでの範囲で、合唱経験があれば即誘われて、団員数を増やしているようであった。団員Aも、当時の団長の旧知の仲で(ボーイスカウトとか、○MCAとか…)既に入団するよう誘われていたらしい。私などは当時の団長とは縁もゆかりも無く、逆に団員Aを通して、唯一の常設男声合唱団であった「まえだん」を紹介してもらって入団したクチであるから、まさにレアケースであったろうと思う。

余談はさておき、一概に決め付けられないが、当時の団長を中心とした同心円的な団員構成の合唱団は、詰まるところ、団長の独裁へと流れ着いてしまうものだ。その頃、団として何か重要な意思決定を行う際、団員全員に集まってもらい、意見を聴く場を形式的には設けていたが、(確か、ちゃんと「総会」という名前を使い、形を取り繕ってはいたが)実質は、当時の団長とその取り巻きによる独裁であったろう。無論、抜群の歌唱力と、学生時代の男声合唱経験での知見をバックに、当時の団長が、団の中で絶大な発言力を有したのは、むしろ自然なことでさえあったろうけれども。

当時の私としては、必ずしもこのような団内の世論形成のシステムを、いかにして打破しようとかいった、明確な野心はほとんど抱いていなかったけれども、やはり、一部の者だけで団の針路を仕切っていることから感じる、自分に対する、いわゆる排他的な空気こそが、通常練習から私の足を遠のかせる大きな要因として認識はしていたのだった。

中曽根指揮者を招聘し、新しい体制を整えたあとに、戦略というよりは、(合唱界では普遍的なスローガンである)「団員増」を進めるべきという、単純な動機であったかもしれないが、兎にも角にも、私は旧体制を壊し、新体制に変革してゆく中心人物となっていた。そして、新聞広告による団員募集は成功し、多数の新団員の獲得に至るのである。

 

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あれから10年が・・・(その4)

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11月 032013
 

(その1)
(その2)
(その3)からの続き

1994年(平成6年)当時の団長と、団員のA、そしてこの私・・・、時を同じくして役者が揃い、前橋男声合唱団への再興へ踏み出すことになるが、なんといっても決定的な推進力に欠けていた。それは音楽的な責任者たる指揮者の存在である。

当時の団長は、確かに学生時代に学生指揮者を務めたこともあって、指揮の腕に覚えがあり、団内の技術的な事柄には絶対的な発言力を持っていた。だが、さすがに、自らの武器である歌唱力を表に出すためには二足の草鞋は履けぬ。そこで、その頃、都内から群馬県内に活動の場を移しつつあった新進の中曽根敦子氏に、指揮者の白羽の矢を立てたわけだが、当時の団長の中でのこの矛盾はこのまま温存され、将来、団を揺るがす事件の内因の一つとして地下深く潜行することとなるのだ。

それはともかく・・・、まずは、彼女には音取りのためのピアニストという名目で練習に来ていただき、団内の世論を醸成した後に、改めて指揮者として就任していただくというプログラムが、我々の中で合意されたのであった。かくして、1994年(平成6年)秋、中曽根女史の常任指揮者就任が決定される。

同時に、ある目的のもと、マネジメント責任者が役職として新設され、学生時代に少々であるが合唱団運営の実績があることや、これまでの再興への動きが評価されてかどうかはさだかではないが、この私が全会一致で推薦され、団の運営(というよりは雑務)担当者の役を引き受けることとなったのだ。この時に感じたある種の昂揚はいまだ記憶に新しいところがあるが、同時に、今後越えなければならない様々な難題の数々に打ち震えるほどのものであった。

そして、ある目的とは、とりもなおさず「初の定期演奏会開催」のことであり、その実現のためであれば、少々の荒療治も厭わずと、私は就任直後から、やや急進的な改革に着手してゆくのだった。翌1995年(平成7年)になって、喫緊の課題とされていた次の三項目について、具体的なアプローチがなされ、実施に移された。

 1.団規約の制定
 2.新規団員の外部からの募集
 3.パートの再編成

こうして、いったんしぼみかけた県内初の本格的男声合唱団構想も、めでたくここに再び胎動を始めることとなるのだが、前述したキーマンの3人の同床異夢もまたお互いに乖離したものとなってゆく。

(その5)につづく

 

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あれから10年が・・・(その3)

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6月 042013
 

(その1)
(その2)からの続き

さて、1993年(平成5年)になって、前橋男声合唱団の活動はすっかり影をひそめてしまった。今振り返れば、この年の6月に群馬県合唱祭に団として参加したことが、この年における唯一の行動記録ではなかったか。しかし、この時を最後に前橋男声は、これ以上の低迷状態に再び陥ることはなかったのだ。先述した2001年の危機後も、決して活動が止むことはなかったのだから。

さて、そのまま翌1994年となり(平成6年)となる。その4月、1991年(平成3年)入団組だった私と団員Aが相次いで職場が転勤となり、前橋の本店に異動してきたのだ。今思えば、これが一つの転機であった。仕事にも慣れ始めたことで余裕も生まれ、新たな生活に潤いを求めていたからだろうか、当時の我々は俄然、合唱に力を入れ始める。

Aは、W大のア・カペラサークル出身で、当時の単語で「ドゥワップ系」を志向していた。また、その頃、新たなメンバーを求めて群馬でのグループ結成を目論んでおり、その人的資産としての価値を前橋男声合唱団に見出していた。
私もその候補の一人となって、様々な機会で歌声を共にすることが多く、お互い、自らに足りないものを相手が持つことを感じ、さながら好敵手として良好な関係を築いていたわけである。

Aは、演奏効果や発声法の違い等の理由から、若干男声合唱からは距離を置いていたが、それは私がア・カペラに距離を置くのと同様であり、Aがア・カペラ・グループ立ち上げに奔走するのを私が助けるのと引き換えに、私が前橋男声合唱団の再建に本腰を入れようとし始めている時に、力を貸してくれたのはAだったのだ。私の中には、学生時代に見出した男声合唱の愉しみを、継続して追求していく気持ちが強かったが、しかし、学生時代とは異なるものを創造していきたいという、漠としたものを心に抱いており、ア・カペラは、一つの選択肢になり得たのだ。

話を元に戻すが、当時の団長は、団運営に関し、まさに「匙を投げた」(本人談)状況であり、男声合唱との関わりといえば、母校の音楽部を指導する程度であったろう。しかし一方で、彼にも大きな転機が訪れる。彼の本業は実業家であり、創業者である父親のもとで、副社長として仕えていて、将来の禅譲はほぼ保障されていたはずであるが、その地ならしのため、かなりの多忙を極めていたのである。

この時の前橋男声合唱団の衰退は、当時の団長が多忙につき、合唱活動に割ける時間を徐々に減らしていたトレンドと実は符合している。しかし、この平成6年過ぎ、晴れて社長職を譲り受けることとなり、急な仕事以外は部下に任せる余裕も生まれつつあったのだ。

こうして、1994年(平成6年)、団員Aと私が時を同じくして、合唱に力を入れ始め、前橋男声に戻ってきた。そこに、当時の団長が賛同、合流したという形であったが、ともかく、前橋男声合唱団の再興の準備が整いつつあったのである。

(「その4」へつづく)

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(その1)
(その2)

 

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中曽根敦子氏・上原良子氏との座談会詳細(その2)

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12月 072011
 

(「その1」からのつづき)

(司会)
ところで、上原先生は我々の合唱を、時には力強くリードしたり、時には優しく寄り添ってくれたり、いろんなサジェスチョンを与えて下さっていると感じています。僭越ながら、伴奏の際、どんな事を心がけてらっしゃいますか?
(上原)
いえいえ、普段そこまで出来ているとは思えないんですけど、敢えて言えば、「こう弾くから、こう歌って!」という感じですかね。そういう弾き方ができればいいなと。
(前橋男声)
でも、うちの団が、まだそこまで到底たどり着けない状況ですもんね。(苦笑)しかも、それを感知するのってなかなか大変かも。
(中曽根)
音楽ってそういうセッション的というか、会話を交わすような一面があって、合唱とか合奏では、それも醍醐味なのにね。現時点では、「まえだん」には余裕がなさ過ぎて、上原さんからのメッセージに気がつかないだろうね。
(前橋男声)
まずは楽譜に書いてあることをきちんと修得せねばですね。
(中曽根)
そうですね。そして更に、楽譜に書いていない部分を感じ取って肝心な音楽的な息吹を吹き込めたら良いですね。
(司会)
それから、上原先生は最近、声楽に再び挑戦されているとのことですが・・・? 
(上原)
そうなんです。学生時代に喉を壊して高音が出なくなって以来ご無沙汰だったのですが、最近、また興味が出てきてレッスンに通っています。
(司会)
以前、「からす川音楽集団合唱部」で歌っていらっしゃいましたよね?
(上原)
ええ。歌いたくて仕方がなくて入団したのですけど、結局、「あなたはピアノやって」とお願いされてしまって・・・。
(前橋男声)
歌いたい欲求ってありますよね。身体が道具だから生理的欲求に近いのかも。(笑)
(司会)
あらためて声楽に取り組まれて、何か気がついたことなどございますか?
(上原)
私の友人でオペラの主役級を張る子がいるのですが、「とにかく回すんだよ!」と言うんです。大ホールでも近い席で聴くと大したことなくても、後ろの方でいざ聴いてみると、ホール中が鳴っているんですね。
(前橋男声)
その逆が、いわゆる「近鳴り」。
(上原)
はい。最初は自分に聞こえにくいし、声が響いているのかいないのかよくわからなくて頼りないのですけど、わかりはじめると、自分の声がどこにもぶつからずに遠くで鳴っているというか。その感覚がちょっと今わかりかけている気がしています。
(前橋男声)
あぁ、それわかる気がします・・・、と同意したいところですが、今後精進します。(苦笑)
(上原)
やっぱり人に発声を聴いてもらうことは重要。「あぁ、その声」って指摘してもらうことです。自己流は早晩迷路にはまります。それほど、声楽の高嶺の裾野は広大で深遠です。
(司会)
現在までのレッスンで習得された良い発声のためのポイントを幾つか挙げるとすれば?
(上原)
あくまでも私の受けたレッスンとしてですが、
 ・眉毛を5cm位上に書くつもりで
 ・口腔内は縦に開けるよう意識する
 ・リラックスして、やや顎を引く姿勢 
(中曽根)
常に全部出来れば、「近鳴り」脱出の日も近い!?
(前橋男声)
いろんな方から示唆をいただくことで、気づきの確率は上がりますから、指導者との出会いはやはり大切ですね。
(中曽根)
「まえだん」は学生時代の経験者が多いのですが、過去の栄光(?)に縛られすぎですね。過去のプライドは大切ですが。ただ、ぬるま湯はすぐに冷めるので、早く出ないと風邪引いちゃいますよ。
(前橋男声)
耳の痛いお話でございます・・・。(寝たふり)
(中曽根)
素晴らしい大きなアドバンテージを持っているのだからこそ、そこで思考停止せずに、真の意味で音楽を創造していって欲しいです。
(司会)
発声への悩みは尽きませんが、今後の前橋男声を展望して頂きたいのですが・・・。
(中曽根)
とにかく社会人合唱団は歌い続けることが重要。その点、過去に大きな挫折を味わっている前橋男声はその意義を理解していると思う。
(上原)
もっともっと音楽に浸れるようになれると良いですよね。
(中曽根)
そう。でもそこが落とし穴で、自分勝手に声を出す自己満足的な浸り方ではなく、合唱団員一丸となって、演奏や活動にどっぷり浸って下さい。
(司会)
長時間にわたり、ありがとうございました。

(終わり)

 

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あれから10年が・・・(その2)

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12月 062011
 

前回からのつづき)

団にとって一番重要な、立ち上げ直後の五年間に、なぜこのように、簡単に衰退の道を転げ落ちてしまったのか。一言で言えば、合唱団がろくな組立設計図も無しに属人的なイメージだけで造られ、しかもあまりに急ごしらえ過ぎで脆弱かつ杜撰な構造であったからに他ならないのだが、しかし、それを最初から求めることの方がむしろ酷というものだろう。合唱団発足のきっかけなど、古今東西そんなものだろうから。とはいえ、その中心人物の音楽思想や合唱団運営への考え方というものは、意外に、創立当初の初期値をある程度拘束してしまうように思えてならない。

ここで注目したいのは、創立当初に相次いで開催された通算二回のジョイントコンサートだ。いずれも、当時の団長が中心となって企画立案したものである。ここに、彼が実現したかった合唱演奏形態の一端を垣間見ることができる。卒団して10年程度以内という、鍛えられた声をまだまだ保持している同窓の合唱経験者を数十人調達することで、確かに、大人数による男声合唱を実現したものの、前男のオリジナルメンバーだけに戻る日常の練習では、うまくゆかぬことが多く、信じられないほどハモらぬ場面に苦笑いすることも多々あったほどなのだ。

もちろん、最初から事はそう易々と運ばず、当面は実力の涵養に努めるしかない事を、当時の団長はわかりすぎるくらいに熟知していたはずであり、事実、その頃の団員総会議事録中にも、「ストイックに練習するしかない」旨の発言記録を見ることができる。しかし、自身が先天的な良声に恵まれ、類い希な歌唱力を持つ彼(←私としては、決して大袈裟でないと思う)にとって、例えば合唱に初めて取り組むメンバーに、一から発声法を教授することなど、気の遠くなる思いであったろう。

彼にとっては、そこそこの実力を持つメンバーを、先のジョイントコンサートよろしく、多少なりとも周囲に揃えることができれば、すぐにでも檜舞台で歌いおおせる実力は、大いに備わっていたのだから。この彼の奥底に眠る、自らの望む最良の合唱演奏形態としてのその実お手軽で利己的な考え方は、これからの前橋男声合唱団の活動に大きな影を落とすこととなる。

それと、当時の指揮者(と言うより、「指揮者役」というのに見えたな、私には)も、本業は中学教師であり、男声合唱を根気よくイチから造り上げてゆくというような、そういう職人的な作業に情熱も興味もなかったようで、活動縮小と共に姿を見せなくなった。創団当初に広げた風呂敷は大きかったが、当時の指導部が、その中身を粘り強く詰め込んでゆく知恵と決意に乏しく、求心力は急速に失われた。折角その旗印を見て参集した愛好者達を失望させ離散させることとなったのだ。

こうして早々に、前橋男声合唱団の活動の第一ステージは幕を下ろす。1993年(平成5年)のことであった。

(「その1」に戻る)
(「その3」につづく)

 

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中曽根敦子氏・上原良子氏との座談会詳細(その1)

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12月 042011
 

こちらで報じたとおり、今夏、強化合宿と併せて行われた掲題について、先般の第6回演奏会パンフレットに掲載済みではありますが、このたび、本ブログにも 掲示することとしましたので、お楽しみ下さい。

座談会メンバーは、常任指揮者の中曽根敦子氏、ピアニストの上原良子氏、団からは、山岸団長ほか5名が出席した。

——————
 
(司会)
早速ですが、前橋男声合唱団の指揮者となって、17年ということになりますが、「まえだん」は少しは成長してきているでしょうか?
(中曽根)
17年・・・ですか。でも、その大半は指揮棒を振ってないんですよねぇ。(笑)
(司会)
うわ、のっけから皮肉炸裂ですか!?
(中曽根)
ええ、万年音取リストでしたからね。
(司会)
じゃぁ、実質指揮者に就任されたのはいつ頃ですか?
(中曽根)
そうですねぇ、五年前くらいに入団ラッシュが起きて、人数も20人を超えたあたりからですかね。ちょうど第4回演奏会(2007年)くらいからかな、指揮に没頭できる瞬間が増えてきたのは。
(司会)
既に指揮者に就任しててホッとしました。(苦笑)それで、せ、成長の方は・・・?(冷汗)
(中曽根)
「合唱団」としては、確実に成長していると思います。社会人男声合唱団の宿命として、どうしてもメンバーの入れ替わりが避けられませんが、音楽への考え方や団としての方向性に芯が通ってきたように感じています。
(司会)
上原さんとは、第2回演奏会(1999年)で初めてご一緒して以来ですが、当初の前橋男声合唱団の印象はいかがでしたか?
(上原)
当時はトップテノールにずば抜けて上手い方が一人いらっしゃって、その方の声しか聞こえませんでしたね。失礼ですけど合唱団というよりは、「○○と仲間たち」といった様相でした。(笑)最近は印象が全く違いますね。以前より合唱しているなと。
(中曽根)
確かに。演奏も、運営も、ワンマンの性格の団だったものね。
(前橋男声)
組織力がついてきたということですかねぇ?
(中曽根)
あ、集中力もね。特に合唱祭・・・ね、上原さん。
(上原)
あぁ、(笑)プラカード嬢の女子高生に集中しすぎて、私達の存在なんかすっかり忘れられてますからね、いつも。
(中曽根)
全員でプラ嬢ににじり寄る様は圧巻!やっぱ、女の子は若いに越したことはないもんねぇ〜〜
(前橋男声)
なんか濡れ衣っぽいなぁ。そりゃS井さんだけでしょぉ〜
(司会)
えー、では・・・強制的に話を戻したいのですが、上原先生は、男声合唱では、どんな曲に興味をお持ちでしょうか?
(上原)
やはり、ア・カペラ曲ですね。男声のア・カペラは素敵です。
(前橋男声)
今までご一緒したレパートリーの中では、どんな曲が印象に残っていらっしゃいますか?
(上原)
断然、ニグロ(Negro Spirituals=黒人霊歌)ですね。ピアノ付きでしたが、不要なんじゃないかと思ったくらいでした。
(中曽根)
音楽的には、倍音を重視する男声合唱には、ピアノは不要という考え方もありますが、やはり華やかになりますよね。ピアノが対旋律で遊んでみたり、何といっても音楽に幅が出るし。
(司会)
演奏会プログラムにも奥行きが出てきますよね。ほかに、記憶に残る曲はありますか?
(上原)
あとは、チャイコフスキー歌曲集ですね。男声合唱にこんな繊細な曲があるのかと、意外でした。 
(司会)
上原先生がお持ちの一般男声合唱団の印象は?
(上原)
沢山の男声合唱団を聴いたわけではないのですけど、聴いた限りでは、やはり勢いや迫力がある、とにかく元気の良い男声合唱ばかりという感じですね。もっと、ピアニッシモを上手に響かせられる男声合唱を聴きたいです。
(中曽根)
男声合唱は音圧も魅力で、それを目当てに聴きに来るお客様が多いけど、やはりピアニッシモ!
(前橋男声)
我々もそれを目指したいんですよねぇ・・・。
(中曽根)
発散系の合唱はどちらかというと容易。逆に、客が思わず引き込まれるようなピアニッシモの音楽をしたい。
(前橋男声)
それでも、ドーンと大音量で鳴らす方が、歌っている実感にマッチしているのでしょうね。小学校時代から、「大きな声で」って指導され続けてきたからかな。
(中曽根)
大きな声で歌うからこそ、ピアニッシモが成立するわけですが、ただ小さく歌えばいいってもんじゃない。ピアニッシモで歌う行為は、最も深くて濃いんですよ。祈りに近いかも。
(前橋男声)
でも、それにはフォルティッシモを響かせる以上の身体的要素が必要不可欠なんですよね。
(中曽根)
そういう意味では、今回の「タンホイザー」なんか、格好の材料。豪華絢爛なフォルティッシモから、思わず息を呑むようなピアニッシモまで、いろいろ取り揃えてございますわよ。(笑)
(前橋男声)
「大行進曲」「フィナーレ」に挟まれて「巡礼の合唱」がやはり肝ですね。あのピアニッシモこそ!
(中曽根)
そうそう。男声ならではの柔らかさと繊細さが魅力的。
(前橋男声)
既に相当鍛えられていますけど・・・。(汗)いずれにせよ、歌いきるスタミナも大切ですね。 

(「その2」につづく)

 

 

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あれから10年が・・・(その1)

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8月 192011
 

「十年一昔」と俗に言う。あれから10年・・・。

外国語が不得手な私が、にわか知識をひけらかしてなんだが、英語では、”Ten years can bring a lot of changes.”というのだそうな。

直訳すると「十年の年月というものは、様々な変化をもたらす」か。(吉田君、あってますかね?)

そう。確かに、沢山の良いことが、この10年間、前橋男声合唱団にもたらされた。だから、なおさら小団の歴史を語る時、大きな転機となった、今から10年前の出来事を避けて通ることはできない。

それは2001年。十年前だ。合衆国で起きた同時多発テロ事件と同じ2001年9月に、わが前橋男声合唱団も重大な危機を迎えていた・・・。

勿体ぶるようなのだが、これを語るには、少々回り道ながらも、小団の歴史を振り返る必要がある。小団の創立は1989年。平成改元と同時だった。

創団当時のメンバーは7人程度であり、今とは異なり平日水曜の夜を定期練習日としていた。新男声合唱団誕生のニュースは、県内紙に取り上げられ、そこそこの話題を呼んだらしい。この勢いで翌年1990年(平成二年)には、団長(当時)の出身大学男声合唱団メンバーを、大挙呼び寄せてのジョイントコンサートを群馬県民会館で催している。

更に翌年の1991年(平成三年)には、倍近くのメンバーが名簿に名を連ねている。その年の四月に筆者は入団したのだが、早くも五月早々に、一つの演奏機会に接した。それが、再び前年と同様、外部から人材を呼び込んだ中、東急イン(当時)で開催された、二回目のジョイントコンサートだった。

こうして、創団三年目にして、二つの本格的男声合唱演奏会を相次いで開催したことで、やはり、県内紙などでも報道され、合唱関係者の間でも注目を浴びることとなった。

だがその実、この頃の実働メンバーは10人に満たない状況であり、当時、団内の空気を肌で感じていた私にはよくわかるのだが、たとえ、団が注目され、一時的にその異色性から喝采を浴びたにせよ、既に人材の流出は始まっており、内部からの崩壊は始まっていたのだ。

後に、有志でア・カペラ・グループの真似事をして分派活動も発生したが、結局本格化することなく、平成五年頃には、当時の指揮者も姿を見せなくなり、活動も自然消滅へと向かっていったのだった。

「その2」へつづく)

 

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「不毛の原野を拓く」について

 特集  「不毛の原野を拓く」について はコメントを受け付けていません
2月 092009
 

この「特集」カテゴリに属する記事作成の目的には、無論、特定の個人を中傷する意図は含まれていない。

あくまでも、創立20周年を機に来し方を振り返り、小団の歴史の必然性を示そうとする試みの一つであるとでも言おうか。記事の登場人物がかつて在団し、このように去っていったからこそ、今の前橋男声合唱団が健全な形で存在するのは疑いようのない事実である。だからこそ、その団員の去っていった背景を照らし出すことに大きな意義があると思ったのだ。

ただ、当時においても現在においても、常識に照らして、その登場人物はぶっちぎりの「変人」であるから、その行動に対して沸き上がる反感については大人の人間的感情として看過できない部分であり、これを素直に表現する方が寧ろ自然であると考えたので、表題の「←」印以降に、いささかエモーショナルな記述をその都度施した次第である。

もちろん、より多くの人々と男声合唱を通じて交歓し、趣味として究めていこうという団の大方針は今後も不変だろう。

所詮は趣味の世界であるのだから、そこまで考えなくとも…と、重戦車のような活動方針を疑問視する論調がかつて団内の大勢を占めていたことがあったが、趣味だからこそこだわりたい…という強い気持ちと、確かな行動力というものがこれらを凌駕し、今の前橋男声合唱団を形造っている。

かつて、在団した人々。彼らに、感情のもつれさえ残っていなければ、今の我々の姿を見せてあげたい。そして、思いを伝えたい。「おかげさまで、今度5回目の自前演奏会を開きます。そして、団員25人、元気で頑張っています」と。

 

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不毛の原野を拓く3…「オレひとり位いなくても大丈夫だよね」 ←ドタキャンしておいて大丈夫なわけないだろう

 特集  不毛の原野を拓く3…「オレひとり位いなくても大丈夫だよね」 ←ドタキャンしておいて大丈夫なわけないだろう はコメントを受け付けていません
2月 052009
 

今回も、前回に引き続き記念すべき第一回演奏会直前に起きたハプニングである。時は、平成8年(1995年)4月。前回掲載した、X氏による突然の退団ショックから立ち直れない時期の事件である。実は、この件は、既にここに書いている。その時は、その文中で断っているように、槍玉に挙げる意図はなかったが、今回もやはり槍玉に挙げるという程ではなく、背景を加えて説明してみたい。(笑)

今回登場するのは、ベースのY氏。

時期は、4月下旬だった。X氏の事件を忘れようと努力していたその頃、私は既に4回続けて練習を休んでいたY氏を心配していた。この方も、当時のベースの核として活躍していた。技術はともかく、生まれつき響きの豊かな声に恵まれ、その存在だけで、ベースの響きに芳醇な味わいが加わるようだった。

当然、彼の不在は、ベースのパートとしての求心力を欠く事態を招き、その不在期間が長引くにつれ、その影響はベースのみならず、団全体に拡散しつつあった。しかも、第一回演奏会で演奏する、とある一曲でのソリストに指定されていたこともあり、彼の去就が残された団員に対して、大きな力を及ぼすだろう事は誰にでも想像がついていた。

当時、パートリーダー職は存在せず、団内のあらゆる雑事はマネージャーの仕事であった。気後れしながらも、私は彼に電話を入れた。もちろん、練習に来るよう頼むためにである。しかし、やっと連絡の取れた彼からの回答は「否」であった。理由を尋ねると、何やら本番当日に、彼にとっての別の演奏機会が重なっていて、そっちを優先するとのことで、オンステしないから即ち当分練習にも出席しない、と。結局、「オレひとり位いなくても大丈夫だよね」というセリフで、電話は切られたのだった。

本番一ヶ月前にドタキャンしやがって、
大丈夫なわけないだろう!?

結局、彼は掛け持ちする他の合唱団と前橋男声を天秤にかけたのである。その結果、前橋男声は捨てられたというわけだ。

実は、合唱後進県「群馬」では、ちょっと声が良いだけで、いろんな合唱団から「ウチに来て」などと声を掛けられ、引く手あまたの様相…という展開に至るケースが多い。この話は決して冗談ではないのだ。確かに嫌な気分はしないだろうしね。彼はそのクチであった。人も良いのかな。いろんな合唱団等に顔を出し、なおかつ、いまだにどこにも定着できていないはずだ。一年くらいして、男声合唱がまたやりたくなったのかねぇ、何食わぬ顔して練習場に来たので、よくおいでになりましたね!と、笑顔一杯に迎えてやったっけな。第二回演奏会はオンステしたけど、その後、またぷっつり来なくなっちゃってなぁ。まぁ、そういう合唱との気分的な接し方を全否定はしないけど、長期的な活動継続を前提とする合唱団にとっては、なんとも迷惑な話だぁね。

果たして、ソロのお鉢は私に回ってくることに。(2曲目のソロとしてだよ、2曲目!)一ヶ月前にソリスト変更はキツイだろ。

こうして、利己主義に凝り固まった方々からの洗礼は、まだまだ続くのだった・・・

 

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不毛の原野を拓く2…「あんた、そんな態度じゃ音楽にならないよ」 ←楽譜を捨てて去ったくせに偉そうなこと言うな

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12月 272008
 

これも平成8年(1996年)の話なので、もう12年以上前になるか。

中曽根指揮者就任以来、幾つかの改革を進めてきたが、そのうちの大きな一つが、新聞広告掲載による団員募集であった。(平成7年=1995年に実施)その結果、4人の新団員を獲得したのだが、今回紹介するのはそのうちのお一人だ。そのお方(仮に”X”と名付けよう)は、トップテノールに属していた。音楽的素養もあり、金管楽器を器用にこなし、別途海外での音楽活動経験も有するという、当時の団にとっては全く稀有で重要な存在であった。

記念すべき第1回演奏会まで二ヶ月を切った平成8年(1996年)4月の、とある練習日のことだった。この日に限って、トップが一人も出席していない。しかも例によって無連絡だ。他のパートは全員とはいかないが、概ね揃っているという状況。

団長も不在のその日、演奏会直前ということもあり、このままでは練習にならないため、マネージャーという立場上、これを放置するわけにもゆかず、やむにやまれぬ気持ちで、私は、当時の練習場の電話を借り、一番近傍に住むXの自宅に電話を入れた。(当時は携帯はほとんど普及していなかった)すると、Xの奥様が電話に出、団名と名を名乗り、Xに代わって欲しい旨伝え、事情を訴えるも、奥様は、なぜか声の表情が訝しげな調子が変わらない。私もまだ若かったのだ、その時点で状況を察知できなかった。

そう、その日、Xは練習に出かけると言って既に家を出ており、実際には練習場に向かわずに、どこか別の場所に出かけていたらしいのだ。(行き先がどこであるかは、ここでは問題でないので、想像にお任せする)Xが帰宅後、奥様と大もめになったのは想像に難くない。

翌週の練習日、彼は練習場に現れるや、強張った形相で、真っ直ぐに私のもとへやってきた。状況を半ば察していた私は機先を制するつもりで、こう言った。

 「先週は突然連絡してすみませんでし・・・」

だが、Xはこれを上回る勢いで、
こうセリフをかぶせてきたのだ。

 「あんた、そんな態度じゃ音楽にならないよ!」と。

そして、踵を返すや、このまま練習場を後にして、二度と戻ることはなかったのだった。

筆者はXの過剰反応ぶりにただただ悄然とするしかなかった。彼は音楽的にも優れており、彼なしでの第1回演奏会は考えられなかった。やりとりを見守っていた他の団員達に事情を話すと、私に非は無いと慰めてはくれたが、成り行きではあったが、その日、浅い考えで彼の自宅に電話を掛けたことを悔いた。中でも、彼の最後の(捨て)台詞は、運営を預かる立場としての適性を自問させるに充分であった。

しかし、この日の練習が終わり、ふと練習場の片隅にあるゴミ箱を見やると、無造作に何かの書類が投げ捨ててあるのだ。不審に思い手に取ってみると、何と楽譜である。しかも、Xのだ。その時は気がつかなかったが、去り際に投げ捨てて行ったのだろうか。この瞬間、私は彼の事実上の退団に納得できたのだった。どんなに音楽的素養に優れた人でも、楽譜を捨ててしまえるという感覚というものは、私には理解が出来ない。どんなに怒り心頭であってもだ。

音楽が愛おしくないのか。ましてや、楽譜には罪はない! (笑)楽譜を捨てて去ったくせに偉そうなことを言うな。

その程度の人間なら、退団上等である。だから、練習も平気で休めるのだ。きっと、アマチュアの合唱練習を見下していたのだろう。そんな人間が、日常、堂々と楽器を演奏し、人様に音楽と称して聴かせている事自体驚きだ。今振り返るに、きっかけは私の若気の至りであったが、折り合える余地は充分にあったものの、彼の直情的な行動がそれをさせ得なかった。それとも、彼の怒りは、私の想像を遙かに越えた域に達していたのであろうか。この謎は、一生解明されることはないだろうけど、Xが捨てて行った楽譜は、大事に今もとってある。(彼は戻って来ないが)

携帯が普及した今は、こういう行き違いはなかなか生じにくくはなった。

合唱団員貴兄に告ぐ。どうしても自由時間が欲しくば、正規の練習日以外の時間帯に設定すべし。臨時練習でも臨時パー練でも何でも入ったと言い訳するが良い。筆者の所にご家族から確認電話が来ても、今は機転を持ち合わせているので、ご心配なく。きっと上手く説明もできよう。(笑)

・・・この時期、不毛な大地の開拓は、緒についたばかりであり、魑魅魍魎(ちみもうりょう)との戦いはまだまだ続くのだった。(笑)

 

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@Mae_Dan