あれから10年が・・・(その5)

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(その1)
(その2)
(その3)
(その4)からのつづき

草創期のまえだんは、高々5年程度で、たちまちその活動はしぼんでしまった。しかし、その時の熱は、決して一気に冷め切ってしまうことはなく、新たな3人のキーマンを生み出し、団の再興へと駆り立てたのだった。

前のエントリで記したとおり、私が団のマネジメント責任者として、まず手がけたのは、以下の3項目であった。

 1.団規約の制定
 2.新規団員の外部からの募集
 3.パートの再編成

1.については、団の骨格となる成文法であり、音楽集団として必須のアイテムであることは論を待たぬ。2.についてだが、草創期のまえだん構成団員は、おおむね、当時の団長を中心とする人脈で形作られていた。近しい周辺人物から始まって、知り合いの知り合いの知り合いくらいくらいまでの範囲で、合唱経験があれば即誘われて、団員数を増やしているようであった。団員Aも、当時の団長の旧知の仲で(ボーイスカウトとか、○MCAとか…)既に入団するよう誘われていたらしい。私などは当時の団長とは縁もゆかりも無く、逆に団員Aを通して、唯一の常設男声合唱団であった「まえだん」を紹介してもらって入団したクチであるから、まさにレアケースであったろうと思う。

余談はさておき、一概に決め付けられないが、当時の団長を中心とした同心円的な団員構成の合唱団は、詰まるところ、団長の独裁へと流れ着いてしまうものだ。その頃、団として何か重要な意思決定を行う際、団員全員に集まってもらい、意見を聴く場を形式的には設けていたが、(確か、ちゃんと「総会」という名前を使い、形を取り繕ってはいたが)実質は、当時の団長とその取り巻きによる独裁であったろう。無論、抜群の歌唱力と、学生時代の男声合唱経験での知見をバックに、当時の団長が、団の中で絶大な発言力を有したのは、むしろ自然なことでさえあったろうけれども。

当時の私としては、必ずしもこのような団内の世論形成のシステムを、いかにして打破しようとかいった、明確な野心はほとんど抱いていなかったけれども、やはり、一部の者だけで団の針路を仕切っていることから感じる、自分に対する、いわゆる排他的な空気こそが、通常練習から私の足を遠のかせる大きな要因として認識はしていたのだった。

中曽根指揮者を招聘し、新しい体制を整えたあとに、戦略というよりは、(合唱界では普遍的なスローガンである)「団員増」を進めるべきという、単純な動機であったかもしれないが、兎にも角にも、私は旧体制を壊し、新体制に変革してゆく中心人物となっていた。そして、新聞広告による団員募集は成功し、多数の新団員の獲得に至るのである。

 

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