あれから10年が・・・(その4)

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(その1)
(その2)
(その3)からの続き

1994年(平成6年)当時の団長と、団員のA、そしてこの私・・・、時を同じくして役者が揃い、前橋男声合唱団への再興へ踏み出すことになるが、なんといっても決定的な推進力に欠けていた。それは音楽的な責任者たる指揮者の存在である。

当時の団長は、確かに学生時代に学生指揮者を務めたこともあって、指揮の腕に覚えがあり、団内の技術的な事柄には絶対的な発言力を持っていた。だが、さすがに、自らの武器である歌唱力を表に出すためには二足の草鞋は履けぬ。そこで、その頃、都内から群馬県内に活動の場を移しつつあった新進の中曽根敦子氏に、指揮者の白羽の矢を立てたわけだが、当時の団長の中でのこの矛盾はこのまま温存され、将来、団を揺るがす事件の内因の一つとして地下深く潜行することとなるのだ。

それはともかく・・・、まずは、彼女には音取りのためのピアニストという名目で練習に来ていただき、団内の世論を醸成した後に、改めて指揮者として就任していただくというプログラムが、我々の中で合意されたのであった。かくして、1994年(平成6年)秋、中曽根女史の常任指揮者就任が決定される。

同時に、ある目的のもと、マネジメント責任者が役職として新設され、学生時代に少々であるが合唱団運営の実績があることや、これまでの再興への動きが評価されてかどうかはさだかではないが、この私が全会一致で推薦され、団の運営(というよりは雑務)担当者の役を引き受けることとなったのだ。この時に感じたある種の昂揚はいまだ記憶に新しいところがあるが、同時に、今後越えなければならない様々な難題の数々に打ち震えるほどのものであった。

そして、ある目的とは、とりもなおさず「初の定期演奏会開催」のことであり、その実現のためであれば、少々の荒療治も厭わずと、私は就任直後から、やや急進的な改革に着手してゆくのだった。翌1995年(平成7年)になって、喫緊の課題とされていた次の三項目について、具体的なアプローチがなされ、実施に移された。

 1.団規約の制定
 2.新規団員の外部からの募集
 3.パートの再編成

こうして、いったんしぼみかけた県内初の本格的男声合唱団構想も、めでたくここに再び胎動を始めることとなるのだが、前述したキーマンの3人の同床異夢もまたお互いに乖離したものとなってゆく。

(その5)につづく

 

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