6月 042013
 

(その1)
(その2)からの続き

さて、1993年(平成5年)になって、前橋男声合唱団の活動はすっかり影をひそめてしまった。今振り返れば、この年の6月に群馬県合唱祭に団として参加したことが、この年における唯一の行動記録ではなかったか。しかし、この時を最後に前橋男声は、これ以上の低迷状態に再び陥ることはなかったのだ。先述した2001年の危機後も、決して活動が止むことはなかったのだから。

さて、そのまま翌1994年となり(平成6年)となる。その4月、1991年(平成3年)入団組だった私と団員Aが相次いで職場が転勤となり、前橋の本店に異動してきたのだ。今思えば、これが一つの転機であった。仕事にも慣れ始めたことで余裕も生まれ、新たな生活に潤いを求めていたからだろうか、当時の我々は俄然、合唱に力を入れ始める。

Aは、W大のア・カペラサークル出身で、当時の単語で「ドゥワップ系」を志向していた。また、その頃、新たなメンバーを求めて群馬でのグループ結成を目論んでおり、その人的資産としての価値を前橋男声合唱団に見出していた。
私もその候補の一人となって、様々な機会で歌声を共にすることが多く、お互い、自らに足りないものを相手が持つことを感じ、さながら好敵手として良好な関係を築いていたわけである。

Aは、演奏効果や発声法の違い等の理由から、若干男声合唱からは距離を置いていたが、それは私がア・カペラに距離を置くのと同様であり、Aがア・カペラ・グループ立ち上げに奔走するのを私が助けるのと引き換えに、私が前橋男声合唱団の再建に本腰を入れようとし始めている時に、力を貸してくれたのはAだったのだ。私の中には、学生時代に見出した男声合唱の愉しみを、継続して追求していく気持ちが強かったが、しかし、学生時代とは異なるものを創造していきたいという、漠としたものを心に抱いており、ア・カペラは、一つの選択肢になり得たのだ。

話を元に戻すが、当時の団長は、団運営に関し、まさに「匙を投げた」(本人談)状況であり、男声合唱との関わりといえば、母校の音楽部を指導する程度であったろう。しかし一方で、彼にも大きな転機が訪れる。彼の本業は実業家であり、創業者である父親のもとで、副社長として仕えていて、将来の禅譲はほぼ保障されていたはずであるが、その地ならしのため、かなりの多忙を極めていたのである。

この時の前橋男声合唱団の衰退は、当時の団長が多忙につき、合唱活動に割ける時間を徐々に減らしていたトレンドと実は符合している。しかし、この平成6年過ぎ、晴れて社長職を譲り受けることとなり、急な仕事以外は部下に任せる余裕も生まれつつあったのだ。

こうして、1994年(平成6年)、団員Aと私が時を同じくして、合唱に力を入れ始め、前橋男声に戻ってきた。そこに、当時の団長が賛同、合流したという形であったが、ともかく、前橋男声合唱団の再興の準備が整いつつあったのである。

(「その4」へつづく)

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(その1)
(その2)

 


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