「暗譜>>譜持ち」ではないです ←理解と盲従は違う【一部差替】

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11月8日の練習日誌で記した(こちら)が、楽譜ベタ見の件である。

その日、指揮者は何を指摘したかったか?これについて、どうやら誤解が多い。

おそらくは団員貴兄も自分勝手な解釈で、そのメッセージを受け取り、その時は理解したつもりになったろう。

次のように受け取った方がいらっしゃったら、少々早合点していると思われる。

 ・譜持ちより暗譜した方が、歌に心がこもり、表現力が豊かになる。

 ・譜持ちより暗譜した方が、姿勢もよくなり、首や肩や腕等に力が入らず、発声上有利。

 ・譜持ちという歌唱形態はそもそも合唱の正統スタイルではなく、暗譜が基本である。

なんだか、中学数学でやった、命題の問題のようだが、上記のどれも、「そうとは限らない」というものばかり。何を根拠に、そう解釈できるのだろう?理解と盲従は違う。

元々、練習中における指揮者のスタンスと団員のスタンスは当然異なる。

指揮者側は、曲を合唱として仕上げるために、全体を見ながら聴きながら、様々な箇所を一々指摘しては修正する作業を繰り返すものだが、団員側は、まず「自分」自身が楽譜通りに歌えるかどうかという、この一事こそが最重要だととらえる方が多い。

【↑私もそういう所がある。そういう団員を非難しようとしているのではないです。為念↓】

とにかく、楽譜通りに歌えないようでは、「自分」の歌として大いに欲求不満が募るのだ。普段、真面目で几帳面な方ほど、この傾向は強いようだ。だから、そういう団員にとってみれば、他の団員や他パートが楽譜通りにできていないと気になって仕方がないのだ。

(↑裏返せば、「自分」が気になって仕方がないという事でもあることに注意)

挙げ句の果てには、そういう団員や他パートを注意しない指揮者自身の器量を疑ったりする。

しかし、練習の熟度が高まるにつれ、指揮者はこうなり、団員はこうなってゆきがちである。このような、団員の合唱への自己中心的なスタンスというものはどうなのだろう。肝心な音楽を感じずに、ただただ細部に気を取られすぎるということ…。

合唱を楽譜を通して、ピッチ、リズム、音量、発音等々、様々な要素に細分化することはたやすい。しかし、細分化されたものを積み上げれば音楽たり得るという幻想にとらわれてはいないか。

本番を次週に控えたその日の練習で、指揮者は、今更楽譜にかじり付く我々を前に、そういう、音楽への自己中心的なスタンスを頑なに固守する態度にこそ、疑問を投げかけたかったのではなかったか…

 

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