音楽は楽しくあるべきか

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以前より本稿では、音楽における「楽しさ」と「楽なもの」の意味の違いについて、何度となく言及してき た。いや、そんな事はとうにわかっている、音楽を究めようとすれば、多少の苦難が付き物なのは当たり前だ…と、良識的な貴方はきっと答えることだろう。

し かし、どうだろう。日本国内の世間一般の見方として、「音楽は楽しくあるべき」という論調が支配的なのではないだろうか。

もちろん、音楽が楽しいに越した ことはない。更に一歩踏み込んだ表現で「楽しめなくては音楽ではない」とさえ言い切る場合さえある。

音楽とは音を楽しむべきもの…などと、音楽を目の前に して(それはえてして、音楽的・技術的な壁にぶち当たって、自己を無理矢理正当化する場面に多い)いちいち呪文のように唱えている国は日本くらいなのであ る。

そういった論調を大いに肉付けする事例がある。楽典を重視しクラシカルで保守的な学校の音楽教育のことを、これは「音学」または「音が苦(おんが く)」であり「音楽」ではない!などと、大見得を切って否定的にバッサリとやる場面である。

音楽理論や楽典にとらわれず、自身の才能のみでスーパースター にのし上がった音楽家は確かに存在するが、稀有な例と言うべきで、例外と考えた方が教育上安全であると判断するのは至極当然ではないだろうか。

こういう見 方というものは音楽の大衆化という側面から、日教組による反政府闘争やメディアの発展と歩調を同じくして、特に戦後の世間からは確かに支持され、結果、我 々は誰でも大衆音楽を身近なものとすることができた。

しかし半面、音楽とは何か?という本質論から目をそむけさせてきてしまったのではないだろうか。快楽主義一辺倒の方向へと誘導して来た人々が存在することは確かなのである。音楽と相対する場合、最初から、「楽しくあるべき」と考えることに無理はないだろ うか?今回はこれについて考察したい。

巷に氾濫する「音楽は楽しくあるべき」という、聞き心地のよいこのフレーズには二重の過ちを含んでいると、常々私は考えている。

まず1点目だが、大体において、一口に「楽しい」やら、「楽しむべき」と言っても、「楽しい」という事は一体どんな状況を指すのだろうか?個々人の主観 にはそれぞれの違いがあるのではないか。

合唱練習を例にとれば、練習中に指揮者にミソクソに罵倒されたとしよう。その際、団員の感じ方も一様ではなく、そ れぞれ異なるものだ。こんな目に遭って、もう音楽はこりごりと思う者もいれば、そんな厳しい状況ですら「楽しい」と感じる者さえいるだろう。

だから、「楽 しくなければ音楽ではない」などという、一見普遍的な真理に思えるこの命題は、実はかなり曖昧な人間の感覚を根拠にしているということがわかる。

そんな命 題は所詮、個人の内面の仮想世界でのみ完結される性質のものなのである。趣味が多様化し、個人の価値観が細分化してきている今日では、合唱団のような集団 内では、「音楽を楽しもう!」との合い言葉は短期的な団の求心力になりはするが、この命題への過度な信仰が長びけば、長期的にはメンバーそれぞれがいずれ 同床で異夢を見ることとなるのは火を見るより明らかであり、これが、近年の合唱活動を長期低落させてきた元凶ではないかと疑っている。

蔓延するこういった 偽の真理がどんな音楽環境であれ、(実は半面は当たっているのだが)堂々と認められてしまっている状況に、漠然とした危機感を私は覚えるのである。

次に2点目。これが今回の主題であるのだが、音楽とはそもそも楽しいものなのだろうか?

「音楽」とは、音を楽しむという意だと受け取りがちであるが、そ れは俗説であり実はそうではないのだ。漢和辞典(角川書店編=「漢和中辞典」)で”楽”を引くと、『音楽を奏する意から、たのしむ意となった』とある。

音楽を奏することによって沸き上がる感情・・・これが愉快であったことから転じて、「楽しむ」と字をあてたのである。

音楽を演奏したり鑑賞したりした時に、 『結果として』楽しいかどうか・・・ということなのである。ここまで調べるだけでも、「音楽」という熟語の本意は”奏でられた音そのもの”であり、少なく とも音を楽しむという人間の行為としての意味ではないことが容易にわかろうというものだ。

そもそも、「音楽」って単語が勘違いのもとなのかも知れない。この場合の、”楽”は、「雅楽」「器楽」と同様の意味なのは言うまでもない。「楽隊」という熟語が、何やら楽しげな一隊という意でないのと同じである。音楽 が楽しいかどうかは、当事者の主観によるのであって、それを一般化して話をすることはきわめて危険な事であることを、ここでは強く指摘しておきたい。

試しに、「音楽とは音を楽しむ…」などという短文をGoogleあたりで検索してみると、これに肯定的なサイト(またはページ)が320件余り…、否定 的なサイト(またはページ)はたった1件しかヒットしなかった。このことからも、音楽=音を楽しむの意として広く受け入れられていることがわかる。

肯定的 なサイトは、音楽産業や音楽専門教育機関、音楽教室等によって営まれており、「音学ではなく真の音楽を・・・」などと、ネット上で客を得るための恰好の宣 伝文句として使われていた。

また、サイト管理者がプロ・アマを問わず音楽系の仕事に就いている者の場合、技術的な壁にぶち当たった場合などに、「でも、音 楽は音を楽しむものだと思い直して…」などと、自らの掲示板やブログで自己弁明の目的で使っている場合が多く見られた。

前パラグラフでは、危険性があると 述べたところだが、ネット上では既に実害を及ぼし始めていると見た方が賢明なのかも知れない。

音を楽しまないかい?という甘い誘いに乗って、ある人は音楽 的な壁を乗り越えられずにこんなはずではなかったと嘆くだろう、またある人は、壁を乗り越えないことこそアマチュアリズムの真髄と、逆に胸を張って見せる だろう。

音楽の芸術的な面とは相容れない商業的な匂いと不純な動機が見え隠れしては、こうなって利を得るのは誰か…?などと、勘ぐりたくもなる。いずれに せよ、この辺りが、すそ野は広いが頂点が低いと揶揄される日本の音楽水準たる今の限界なのかも知れない。

「音楽とは何か?」という抽象的な大命題に対し、言葉で表現し尽くそうとすることには元々無理があるし、およそ無意味なものである。

この至上命題につい ては古今東西を問わず、幾多の音楽家がこれに答えようとしてきた。その答えこそが彼らの生み出した作品そのものなのであり、それは音楽を通してしか表現で きないものであったから。

だから、音楽は楽しくあるべきなどという極めて限定的な一側面は、音楽を志そうという者にとっては良い道標にこそなるが、音楽と いう深遠な抽象の渦の前では、やはり意味をなさないと言うよりほかないのである。

音楽という得体の知れぬ宇宙を語るとき、そこにはエンターテインメント性が極めて高く、容易に商業主義と結びつきやすい部分が必ず存在するものだ。しか し、ごく一部を占めるに過ぎないその部分にだけスポットライトを当て、それが音楽の全貌であるかのように主張する論調には、今後も反論し続けていきたいと 考えている。

 

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