語るな、我が友よ

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今年の9月に、私にとって大切な友人がこの世を去った。
私は先日、奥様からの突然の喪中葉書でそれを知ることとなったのだ。
周囲の同期の旧友たちも、もちろん知る由もない。
それほど、ひっそりと、静かに独り旅立ってしまうなんて!!
その友人は、私がこの合唱という素晴らしい世界と関わるきっかけをつくってくれ
たのだ。
彼なしでは、今、私の人生の大きな部分を占める、この合唱と出会ったはずもな
い。
それは高校二年の初夏のことだった。
高校一年の段階で、中学時代とは段違いの厳しさの部活動に接し、
バスケットボールを続けることを断念した私は、安穏とした日々を送り、
髀肉の嘆をかこっていたのだった。
そんな中、廃部寸前の「合唱部」に私を誘ってくれたのは彼だった。
高校二年では選択必修科目で音楽の授業があり、独唱の試験で私の歌声に目をつけ
た(耳をつけた?)彼が、果たして勧誘してきたというわけなのだ。
合唱部はメンバーは5?6人そこそこ。
1パート、1?2人という計算で、確かに廃部寸前である。
進学校でもあったので、勉強への意識は比較的高く、
そんな状況の合唱部に価値を見いだせず、離れていった者も多かったようである。
上級生であるべき三年生も在籍していたようだが、ほとんど顔を合わせることはな
く、
事実上、二年生が主導権をとっているようであった。
当時、私は別の文化系サークルにも名前だけ所属していたが、
格別そちらに束縛されたり、忙しい思いをしているわけでもなかった私は、
今まで音楽の経験がないことを心配しながらも、漠然と歌うのが好きというだけ
で、
ほぼ即諾して入部することにしたのであった。
音楽室を堂々と使う吹奏楽部の連中に比し、待遇の差は歴然としていた。
伝統の合唱部であると聞かされていたのだが、
練習場を訪れると、そこは音楽準備室と言うと少しは聞こえがよいが、
そこかしこに楽器や楽譜類が埃にまみれた中雑然と配置された、
薄暗くて窮屈な倉庫というのが実体であった。
もうすぐ火が消えようとしている寂寥感の漂う部活動に惹かれたのか、
何故、即入部を決めたのか、よく覚えていない。
彼はセカンド。私はベースであった。
そんなひょんな事から、私の長い合唱人生は始まったというわけなのだ。
卒業以来、彼とはしばらく会うことすらなく、事実上音信不通の時間が流れたが、
2004年の夏にOB演奏会が開催されるという朗報が舞い込んだのだ。
当時、前橋男声合唱団の第三回演奏会を手がけていたところであったが、
同期との再会を楽しみに、私はスケジュールを調整し、オンステすることとした。
しかし、千葉県に住む彼は、通常練習に出席できず、
久しぶりに歌声を共にする事はかなわなかったが、
一聴衆として、演奏会に駆けつけてくれたのだ。
二十年ぶりの再会であった。

今年の9月に、私にとって大切な友人がこの世を去った。

私は今月初旬、奥様からの突然の喪中葉書でそれを知ることとなったのだ。 周囲の同期の旧友たちも、もちろん知る由もない。 それほど、ひっそりと、静かに独り旅立ってしまうなんて!!

その友人は、私がこの合唱という素晴らしい世界と関わるきっかけをつくってくれたのだ。 彼なしでは、今、私の人生の大きな部分を占める、この合唱と出会うはずもない。

それは高校二年の初夏のことだった。 高校一年の段階で、中学時代とは段違いの厳しさの部活動に接し、 バスケットボールを続けることを断念した私は、安穏とした日々を送り、ちょっとカッコをつけた言い方をすれば、まさに髀肉の嘆をかこっていたのだった。

そんな中、廃部寸前の「合唱部」に私を誘ってくれたのは彼だった。

高校二年では選択必修科目で音楽の授業があり、独唱の試験で私の歌声に目をつけた(耳をつけた?)彼が、 果たして勧誘してきたというわけなのだ。

合唱部のメンバーは5〜6人そこそこ。 1パート1〜2人という計算で、廃部寸前といえばそうであったのだが。

上級生であるべき三年生も在籍していたようだが、受験を控えてか、ほとんど顔を合わせることはなく、 事実上、二年生が主導権をとっているようであった。

当時、私は別の文化系サークルにも名前だけ所属していたが、 格別そちらに束縛されたり、忙しい思いをしているわけでもなかったので、漠然と歌うのが好きというだけで、ほぼ即諾して入部することにしたのであった。

音楽室を堂々と使う吹奏楽部やマンドリン部の連中に比し、待遇の差は歴然としていた。 伝統の合唱部であると聞かされていたのだが、 練習場を訪れると、そこは音楽準備室と言うと少しは聞こえがよいが、 そこかしこに楽器や楽譜類が埃にまみれた中、(男子校といえば男子校らしいのだが) 雑然と配置された、薄暗くて窮屈な倉庫というのが実体であった。

そんな状況の合唱部に価値を見いだせず、離れていった者も多かったようであったが、 私の場合、もうすぐ火が消えようとしている寂寥感の漂う部活動に逆に惹かれたのだったか、何故、即入部を決めたのか、よく覚えていないいのだが、 彼の意外な勧誘が効いたのは確かな感覚として記憶している。

ともかく、そんなひょんな事から、私の長い合唱人生は始まったというわけなのだ。

彼はセカンド・テノールであった。 当時の私には声の良し悪しなど思いも寄らなかった価値観だが、 今となってみれば、透き通った純な彼の歌声を思い出す。

もう一度、彼とハーモニーを作りたかった。

正直なところ、彼が退職後、群馬に戻った暁には前橋男声合唱団に誘う気持ちも抱いていた。しかし、それもはかない夢と終わったのだ。 元々、彼は心臓に持病を抱えており、体躯も華奢で、小柄であった。

当時も体育の授業では激しい運動は控えていて、 ラグビーなどの激しい運動を授業内容とする際には、決まって彼は校庭の隅で見学していた。そんな姿が今でもまぶたに浮かぶ。

卒業以来、彼とはしばらく会うことすらなく、事実上音信不通の時間が流れたが、 2004年の夏に母校合唱部のOB演奏会が開催されるという朗報が舞い込んだのだ。

当時、前橋男声合唱団の第三回演奏会を手がけていたところであったが、 同期との再会を楽しみに、私はスケジュールを調整し、オンステを決心したのだ。

しかし、千葉県に住む彼は、通常練習に出席できず、 久しぶりに歌声を共にする事はかなわなかったが、 一聴衆として、演奏会に駆けつけてくれたのだ・・・・・二十年ぶりの再会であった。

その時、彼は独身であったが、その後間もなく結婚を果たし、 すぐに子宝にも恵まれたようで、私も、彼からの嬉々然とした近況葉書を受け取って、 心から喜んでいたのに・・・。

先日、奥様にお花を贈らせてもらった。(何を今頃・・・と思われるのを承知の上だが)

私と奥様とは全く面識もなかったので、簡単なメッセージを添えておいた。 どれだけ奥様に気持ちが伝わったかは不明である。

彼への感謝の念は、大学で男声合唱団と出会い、活動を本格化させるほどに、 その大きな岐路は私の人生論では触れずにはおけない大きなトピックスとして、年を経る毎に、確固たるものとなっていった。

そして私は、彼とのたった一回の再会時に、それを告げるチャンスを得た。しかし、彼は意外にも、 「それは僕のおかげなんかじゃなく、君が自ら選択し切り拓いた道だ」 と言ってくれたのだった。

ある意味、私は彼のその言葉によって救われたのだ。私は、いろんな人たちのおかげで、この合唱を続けてゆけることを日々実感している。 彼も確かにその一人である。

 

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