ジョイントコンサートを振り返る(その3)

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第2ステージ開始直前の情景

第2ステージ開始直前の情景

それと、今回のジョイントコンサートを通じて感じたのは、残念ながら、ステージ練習と全く違った挙動を本番でする人達がいるという事についてである。 (もちろん、私がその一人である可能性を排除しないが)
違った挙動とは、大部分が「急に張り切って、周りを聴かずに独善的な喉声で歌い始める」こと・・・、 もしくは、大局を失し、上の「 」に準じた行動一般を指す。

その人数は、ほんの一握りの方々で、確かに少数派である。 しかし、足並みを乱すという意味では、時には全体の合唱演奏を危機的状況に陥れる場合もある。 まぁ、憎めないキャラの方が多く、 個人的には愛すべき隣人である。

リハではおくびにも出さず身を潜めておいて、 いざ本番を迎え、悪貨に変化(へんげ)し、良貨を駆逐して演奏の質を下げる。 もちろん、本人は大声を張り上げることができて、さぞご満悦なのかも知れない。 そして本人には、リハで消耗を防ぐことで、本番では自らの実力を発揮することができ、結果、団に十分貢献したと、強い達成感と共にそう思い込んでいる節がみられるので、 余計に始末が悪く、痛い話となってしまっている。

無論、本人が確信犯であるのか、無意識に近い行為なのか、外からは区別がつかない。 前者であれば、その後の扱いは比較的容易だが、問題なのは後者の場合であり、 大部分がこれに該当すると思われるのだ。

当日のステージ練習は、会場内の響きを確かめながら、奏でる音楽を再修正する場である。 よく、本番に備えてゲネプロでは「声をセーブする」などとのたまう御方が散見されるが、 前日などに同じ演奏会場で直前練習を行っているのならいざ知らず、 我々のような素人音楽集団では、そのような偽善行為は即刻やめるべきだと思う。

そして、 注意深く残響に耳を傾け、慣れ親しんだ練習場とは異なるその環境で、自らがなし得るべき最良のパフォーマンスとは何であるかという事について、冷静に思いを致すべきだ。それこそが団へ貢献する意義のある準備作業となるだろう。

大体において、小団に真の意味で「セーブ」できる御方が存在するのか疑問である。 一曲丸々、腹筋を自在にコントロールしながら満足に歌い通すこともできないのに、 「セーブ」とは笑止もいいところだろう。(逆説的だが、実力で劣るからこそ、「セーブ」などというような、 独善的な行為を強行できるのかも知れない)

こういう場合、学生団体では上意下達の原理で、 上級生の力で、団内をコントロールすることもできよう。 しかし、社会人による一般団体の場合は、とても悩ましい問題となるのである。 とはいえ、手をこまねいているわけにもゆかず、今後は指揮者の信任の下、執行部で意思共有を図り、 時宜を見計らいながら、本人に理解を求めるべく、直接話をさせていただくつもりである。

それが全体の利益への早道であるし、何と言っても本人のためでもあるからだ。 ただ、それで解決が図れるかというと、見通しは甚だ暗いと申し上げざるを得ない。 なぜなら、話が通じない恐れが大きいからだ。

私の経験上、こういう方々は、潜在意識の中で、既に自己陶酔している場合が多いので、全体のためと説明しても、自らを否定されたと受け取る公算が大きいのだ。

合唱団全体、パート、自分・・・これらの区別はついているだろうか。 練習中も、指揮者の指摘に対し、「自分はできているかどうか」は大きな問題でない。 合唱は、要はパートでできてナンボ、全体でできてナンボの世界である。

逆に、音楽や歌には、人を恍惚感の高みに持ち上げる力があることは間違いなだろうから、 我を忘れてそれに耽溺したいのだったら、自分の部屋の中だけにすべきだろう。

いや、耽溺しても良いのだ。 しかし、そこには見せる(魅せる)ための巧妙な計算が必須なのである。 たとえ没頭しても、自らを律し、外側から自らをチェックする意識が働いていなければならない。

学生時代のような秩序が構築できないからこそ、 その分、メンバーが自らの意識を高めていかなくては、合唱団の求心力は維持できないのではないか。

そうすることが学生時代とは違った大人の合唱の楽しみの一つでもあると思うのだがいかがなものだろう?つらつらと思いのままに記してきたが、ここまで読まれてピンと来ない方は、大変僭越な言い方ながらも、今のところは、我を忘れるほどの耽溺は控えておいた方がよいだろう。

 

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