斎藤 民 県連理事長が死去

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10月 202004
 

10月17日朝、群馬県合唱連盟の斎藤民理事長が心不全のため、高崎市内の 病院で死去した。
93才と大往生であった。謹んでお悔やみ申し上げる次第である。

2001年に群馬県で開かれた国民文化祭では、創作オペラ「みづち」の芸 術監督を務めるなど、
本県の音楽文化の振興発展に多大な功績を残した。

連盟傘下のねんりんピック合唱隊が、
無事役目を果たし終えた直後の訃報に、団内にも ショックが広がっている。

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ねんりんピックに合唱隊として参加

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10月 162004
 

10月16日、「ぐんま発の応援歌」をテーマにした、「ねんりんピッ クぐんま(第17回全国 健康福祉祭群馬 大会)」が開幕した。

既報のとおり、前橋男声合唱団は8月末より、総合開会式の音楽隊の一翼として練習を始めて来ていたが、11日にリハーサルをこ なし、こ の日、本番を迎える事となった。

しかし、この日はこの秋一番の冷え込みとなり、前橋では朝方には9度という最低気温を観測、ふたたび、2003年の冬季国 体の悪夢がよみがえる・・・。

合唱隊は、高崎(浜川プール)集合のグループと、前橋(市立前橋高校)集合のグループの二手に分かれて集まった。交通混雑を避けるため、運営側スタッフが郊外に一旦集まってイベント会場に向かう手法は最近定着してきた。

我々前橋男声合唱団は前橋集合のグループに属し、11日のリハーサルでも練習済み。6時 55分集合であったが、7時10分のバス出発までには全員集合できた。

7時半過ぎには会場である敷島公園に到着。空は台風23号から延びる前線の雲で覆われ、北風の冷たい朝となった。早々に雲はとれそうにない。


待機場所 であるサッカーラグビー場の観覧席は寒風吹きすさび、例の黄色のトレーナーに着替えながらみんなで防寒対策を話し合う。

8時から、合唱指揮者である新陽一 氏により発声練習が行われた。前回の冬季国体のときは発声練習すらなかったのだから、内輪だけで発声練習をしようと考えていた筆者としては大いに驚いた。

その後、8時半からリハーサルを行う。吹奏楽隊と一緒に直前の確認をする。会場は他のアトラクションのリハーサルが始まっており、活気に満ちている。

先 ほどまでの寒さも、幾分薄らいでゆく。指揮者の指導のもと、実際に歌いながら、直前の会場の雰囲気を五感でもって確認するこの作業は、言うまでもなく、本 番前の最重要事項である。同じパートに、この期に及んで音さえとれていない方が、後方から雄叫びを上げているのが気になるが、放置するしかないのであっ た・・・。

再び待機場所に戻り、早くも昼食。12時過ぎは本番最中の予定であり、早飯となった。

私は朝飯をガッチリ摂ってしまったので食欲がない。また寒い中での リハーサルが予想以上に体力を奪っているようだ。

私はウィンドブレーカーをトレーナーの下に 着込むという非常策をとった。その間、この気候に対応して事務局では使い捨てカイロを音楽隊 の一人一人に配布。

いつの間に、しかも、このような数をよく用意できたものだ。近くのコンビニあたりに出かけたのでは、こうも大量の物は調達できないだ ろう。前回の冬季国体事務局に比べ、音楽隊に対する心遣いの差は歴然としている。

さて、時間は11時20分を回り、会場へスタンバイの指示が出る。ちょっと早いと思ったが、既に、メインスタンドは8割方埋まっている。電通のスタッフ や県の職員、そして多くのボランティアの方々が慌ただしく直前の準備に駆け回る姿を見ながら、このイベントが、本当にたくさんの人たちによって支えられて いる事を実感する。

やがて荘厳な木遣り歌とともに総合開会式が始まった。常陸宮・同妃殿下のご臨席のもと、選手団の入場が始まると、我々の出番だ。

47都道府県プラス13政令都市の、元気なお爺ちゃんお婆ちゃん選手団の入場 に、「ほのぼの群馬の歌」をつごう3回繰り返したが、出来はまずまずであったのではないか。

スタッフによるマイクコントロールも手慣れており、なおかつ合 唱隊への音のモニタリングも適切で、歌いやすい環境にあったと言える。(ま、当然用意されるべき環境でもあるのだが)

途中、一時的に陽が射し始め、着膨れ状態の筆者は、暑さで窮地に追い込まれそうになったが、その後また曇天となり、結局、無理な重ね着は効果を発揮した 形になった。

以上、合唱隊としては、今回のマネジメントに対しては、及第点を上げても良いのではないだろうか。式の詳細は、上毛新聞等を参照されたい。

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創立15周年特集記事(その3)

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10月 132004
 

◆確執の決着、そして新時代へ(1999~2003)

(画像は、2001年=平成13年5月26日に草津町ホテルビレッジで行われた強化合宿での集合写 真)

保守派と改革派の論争は、健全に機能し、常任指揮者を擁する改革派が主導し保守派がチェック機能を果たすという、ある意味で良好なバランス関係を維持し ながら、建設的な方 向へ合唱団を導いてきた。

しかし、保守派が歴史を巻き戻せると勘違いを犯し、それを実際に策動として行動を起こしたとき、この関係は大轟音を立てて崩れ落 ちたのだった。

2001年(平成13年)に入って、執行部では年末までに想定される第三回演奏会の実現に向けて、詳細なプランニングが始まっていたが、5月になって突 然(それは執行部内に事前の話もなく)小山前団長から、「定演を延期し、翌年2002年6月に、大人数による男声合唱団演奏会を開催しよう」という提案が なされた。

再び、東北大学メモリアル合唱 団を呼ぶのだという。1990、1991年に行われたジョイントコンサートの焼き直しを、定演を蹴ってでもやろうと言うのである。

この思いつきとしか受け 取れない提案に対し、自己の演奏会を優先すべきという異論は当然続出し紛糾したが、結局、この演奏会の音楽監督に、中曽根女史を据えることと、団員の 経費負担を皆無とすることを条件に、同演奏会への参加が決まったのだった。(名称は伏せるが、同演奏会へは強力なスポンサーがつく予定であった)

確かに、 その条件がクリアされれば、この上ない環境で大人数の、しかもレベルも そう低くない男声合唱を或る程度楽しめるだろうことは想像に難くなかった。

しかし、東北大学メモリアル合唱団が、軽々にと中曽根女史を音楽監督として認定 するかどうか、そして、経費負担無しという担保は全くなく、更には次第に団員の疑念は高まり、9月の定期団員総会で小山前団長に対して尋問すべきと言う声 が大 勢となった。

こうして合衆国で起きた同時多発テロと同時期に、一部団員により、中曽根女史の練習態度を不適格と指弾する(甚だ主観と偏見に満ちたものであったが)突然の不信任動議をきっかけとする退団劇が勃発したのだった。

団員総会をのべ2日間開催しての議論の結果、その当初の前提条件は崩れ、同演奏会への不参加が決議された。
そして、この事態に、団長・副団長共々団を辞する(罷免ではない・・・為念)という憂うべき結末となっ た。

以降、この事件の後遺症は残ったメンバーを長期間苦しめることとなったが、この後 の素早い新体制への移行が刺激となり、残留メンバーの結束を高めるという意外な効果も生じ得たたのだった。

とりわけ、メンバーの個人レベルでの合唱への情熱と、不断の努力により着実に人数を回復しつつあると言えるだろう。

実働団員はようやく2004年(平成16年)4月現在、13名を数えるにまで至ったた が、前述の「失われた5年間」に、一度我が団を去っていった人材の回復は困難を極め、元々、合唱後進県である群馬県内での人材発掘は、従来の方法では限界 に達しつつあるのかも知れない。

この間、かつての低迷期に比し、合唱を楽しむ意欲を持つ者が確実に増え、マネジメントグループを中心に固い結束のもとにコアとなって活動を支える状況が 現出し、かつてのように活動が停止してしまうようなことも無く、団の活動基盤はようやくここにきて微動だにしないものとなってきた。

そして、2004年7 月には5年間のブランクを経て、第三回演奏会を無事挙行できた事は、既報のとおりである。

(画像は、2002年=平成14年4月14日 高崎駅西口「庄や」 での、
 北川雅和さん歓迎会集合写真 photo by 近藤一郎さん)

人々の趣味はますます多様化し、「合唱」が社会人の趣味の上位ランクから姿を消して久しい。仕事に家庭に多忙な中、「合唱」を続けるには他の趣味に比較 して根気の要るものである。

団創立以来のべ40名以上の人間が籍を置いたものであるが、定着率は甚だ低く、現団員は名簿上は24名、実働に至っては13名 程度を数えるに過ぎない。

創立時団員のうち現在も名簿に名を連ねる者は、高々2名程度に過ぎず、第1回定期演奏会以後では、既に休団もしくは幽霊化した団 員が10名以上にも達するという深刻な事態である。

外見での判断が優先される今の時代と無関係ではないだろうが、何か、集団で一つの目的を達しようとする 行為が困難になってきているのだろうか。

確かに、個人優先で、人々のニーズは細分化され止まることを知らない。個人間の利害を調整し、一本化していくとい う、合唱団における前提条件自体が、だんだん時代に受け入れられなくなっているのかも知れない。

だが、悲観ばかりしていても始まらない。価値観多様化すれ ば、捨てる神もいれば 拾う神もいるということでもあるのだ。男ばかりの胡散臭いと見られていた集団に価値を見いだす人間も、最近入団する傾向にある。

こうした新たな世代には、 21世紀における一生の趣味として の男声合唱の新たな魅力というものが、おぼろげながら目に見えているのかも知れない。

最近入団した若いメンバーが身の周りにいらっしゃるだろうか?であれ ば、遠慮せずに語りかければいい。彼らは時代の申し子である。彼ら若い世代と歌声を共にしていく事の重要性は論を待たないが、積極的に若い世代と交わり、 時代を嗅ぎ取った変革を臨機に進めて行くべきと考える。

(おわり)

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創立15周年特集記事(その2)

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10月 112004
 

(つづき)

こうした保守的メンバーの返り咲きは、また新たな動きを生むこととなる。
1994年(平成6年)より、前団長の母校である前橋高校音楽部OB合唱団が結成され、
その団長に、やはり旧主力メンバーの一人が就任したのだ。

元々、前述の7人の侍の中に前橋高校音楽部顧問教師がおり、
彼の依頼で前団長が声楽指導を行っていた。

前橋市内の二つの男声合唱団による交流の場として、
毎年8月旧盆に開催の同団定期演奏会に対し、前橋男声合唱団は以後数年間賛助することとなり、
これを契機に前橋高校音楽部現役メンバーと練習時間を共にする等、
ますます関係を深めていくこととなるの だ。

(画像は、1998年=平成10年9月13日 草津町・ホテルビレッジで行われた強化合宿での集合写真)

彼らとの結びつきは、新団員供給源としても魅力的であり、保守派はそれを喧伝し、
改革派もそういった必要性を認識していたが、その実体は「交流」という呼ぶにはほど遠く、
年一度のOB合唱団定演での運営や技術に関すること
(やはり彼らにはそ ういう明確な概念はやはり念頭にほとんどなかったと言えよう)には、
我が団の関与は全く拒否され、限られた一部の面々によって排他的になされることとなった。

当然、技術的運営的に大型演奏会の場を経験したことのない彼らの、
限定的で特殊なイメージの中でのマネジメントはお粗末な代物と なり、
演奏会自体の性質はその演奏精度よりは同窓会的な性格が色濃く、
前橋男声合唱団員と前高OBを兼ねていなければ、何の魅力もないイベントに成り下がっていた。

また、経験豊富な当団からスタッフ派遣を要請されることもなく、
もちろん当団からの企画段階での賛助を打診しても梨の礫なのであった。

賛助 団体の常任指揮者である中曽根女史が一度もステージを依頼されていないことも、
閉鎖的な性格を示す証左の一つといえよう。

こうした前高OB合唱団定演に対する路線の潜在的な対立は、
1999 年(平成11年)度より、「団員による自由賛助」という形で一応の決着を見た。

なぜなら理由は二つあった。
一つは新団員の供給源としてほとんど機能しない ことが明らかとなり、
むしろ、現役メンバーの大学進学後に合唱を続ける人間がごく僅かという状況だった事。

そして二つ目は、旧盆のトップシーズン期は、
独身のOB貴兄ならまだフリーな 時間があるだろうが、家庭持ちの前橋男声団員にとっては、
音楽的完成度の低い同定演にわざわざ参加することの意義に疑義が生じ始めており、
距離を置く必要を感じていたと いう事・・・この二点である。

しかし、この措置に保守派は反発し、運命の2001年(平成13年)9月へと繋がっていく。

こうした甚だ輻輳した事情を孕みながらも、
どうにか団員数も20人近くまで回復することができ、(ただし前橋高校を含む)
1996年(平成8年)6月には念願の第一回目の演奏会 の開催に漕ぎ着けた。

以後、次回単独演奏会への体制整備は更に強化され、
運営面ではマネジメントグループ制を導入、
年々膨らむ一方であったマネージャーの 業務を分担・専門化させ、
常時4人体制とすることにより、大型演奏会への対応力を高めた。

また、パートリーダーを規約内に明文化し、
パートの技術に責任を 持たせることで、一層の技術力の向上を図った。

第一回演奏会以降、毎年、県合唱祭に出場。
1997年(平成9年)には県内アマチュア音楽団体の成功の見本ともなった、
「からす川音楽集団」合唱部(現 KOS合唱団)定期演奏会に賛助出演、

1998(平成10年)年10月には県内の混声合唱では実力ナンバーワンの呼び声高い、
「群馬室内合唱団」定期演奏会 への賛助出演を経て、
いよいよ1999年(平成11年)12月には、創団10周年を記念した第二回演奏会を、
念願の本拠地前橋の前橋市民文化会館で挙行することができた。

また、2000年(平成12年)12月には、
若々しい伸びやかな歌声が評判の「合唱団葡萄」定 期演奏会に賛助出演。

2002年(平成14年)6月からは、新島学園聖歌隊定期演奏会に毎年賛助出演するなど、
活動も再びアクティブなものに変貌を遂げて きている。
(写真は第二回演奏会開演直前スナップ)

(つづく)

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創立15周年特集記事(その1)

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10月 102004
 

前橋男声合唱団にとって今年は何と創団15周年という節目を迎えることとなった。

前回、10周年時には第2回演奏会を実施した。
創立時メンバーは既に残っていないのだが、
その歴史の流れの中で新しいメンバーが歌心を受け継いできた。

そして15周年の今年、第3回演奏会を開催できたのだった。
さて、ここで、別ページにも一部掲載済みであるが、
あらため て、この15年の歩みを振り返ってみたい。

1989年(平成元年)、昭和から平成に年号が変わってまもなく、
小山昌人団長(=当時:~2001年在職)を中心とする、
7人の男声合唱愛好者(当時は「 7人の侍」と呼んでいたらしい)により、
我が団が創立されて、本年で15周年という節目を迎える。

この間、合唱という音楽の位置づけは更に低下し、
より特殊 化 してマニアックで難解な方向へ進んで来たように思える。

しかし、80年代のカラオケブームを経て、
最近のア・カペラ、バーバーショップのブームの到来とともに、
男声合唱に対する世間の見方も変わりつつある。

『故きを温めて新しきを知らば以て師たるべし』の言葉のごとく、
今までの我が団の歩みを振り返るとと もに、今後の団を展望することとしたい。

 ◆創団、得意、蹉跌・・・失われた5年間(1989~1993)

 さて、「7人の侍」によって創団された前橋男声合唱団は、
その草創期であった 1990年(平成2年)と1991年(平成3年)に、
小山前団長の母校OBを 主体 とした「東北大学メモリアル合唱団」と、
立て続けにジョイントコンサートを開催し好評を博した。

確かに好評を博しはしたが、前橋男声合唱団が単体で評価さ れたというわけでなく、
合唱後進国・上州の地に、まともな男声合唱を響かせたという事実が取り上げられたに過ぎない。
しかし、男声合唱に取り組む 集団が群馬にも存在するということを、
内外に知らしめた功績は大いに評価されるべきであろう。

こうして、トップテノールであった小山氏が当団を、
自身の歌唱力を大 きな武 器にした県内唯一無二の男声合唱団として注目を集めさせたわけであったが、
群馬の地ではまだまだ合唱というものへの深い理解は進んでおらず、
県民の音楽的 地力の向上が背景となっていなかったことは、
この団にとって、大いなる苦難の始まりでしかなかった。

また運営的な面でも、彼を除くメンバー主力が必ずしも男声合唱 や音楽経験の豊富な人間とは限らず、
メンバー間の人脈も一部の団員の私的なネットワークで構成されていたことは、
創立間もない団にとっては不幸なことで あった。

なぜな ら彼らが団の運営方針、技術的・音楽的レベル等
(しかも、そういった明確な概念は皆無であった)の全てを決定し、
独占的に取り仕切り、新参者は団の重要決定 時に蚊帳の外に置かれるという、
明らかに排他的な傾向があったからなのだ。

全くコネクションのない人間も、
県内一の有力男声合唱団に興味を示して次から次へと入団してきたが、
こういう閉鎖的なな環境を嫌忌する者も少なくなく、次第に団を離れていくこととなる。

いかに一人の団員の 歌唱力がピカイチでも、所詮合唱は集団で行う芸術であり趣味である。

それ以外の合唱団としての魅力に欠ける前橋男声は、
こうして徐々に実働メンバーが減少する とともに団は低迷期を迎え、
挙げ句の果てに当時の指揮者も、なんと活動を投げ出してしまうに至り、
一時は県合唱祭すら参加できず、事実上の活動停止に陥ったのだった。

男声合唱に興味を持った大勢の人間を惹き付けるることに、
戦術的にも戦略的にも失敗したこの時代は、後述するが、「失われた5年間」として、
以後、前橋男声合唱団をいろんな意味で呪縛していくことになる のだ。

 ◆中曽根女史の常任指揮者就任、
      諸改革の成功と保守派の復権(1994~1998)

その後、体制改革を成し遂げ新たな求心力のもとで、
精細な音楽作りを目指して活動再開を主張す る新世代メンバー
(創団後数年を経てに入団した者が多い)の論調に次第に傾いていった 当時の団長は、
ついに団の改革に着手。

当時は『藁にもすがる思い(同団長談)』であったのだろう。
まずは、1994年(平成6年)、新たに常任指揮者のポストを新設し、
前年より当団の練習指揮者兼練習ピアニストと して 当団ではお馴染みとなっていた、
新進の中曽根敦子女史(画像)を 抜擢する。

まだ三十才にも満たない気鋭の指揮者であったが、
今までの団の芸風である力業だけの男声 合唱に加えて、
女性的で繊細な面をも併せ持つことで、幅広い音楽づくりがができるはずと期待した。

中曽根指揮者の就任により技術的な柱が出来上がると、
こ れと同時に運営面での実務者を置くことが急務の課題として必然的に浮上する。

そして、新たにマネージャー職を新設し、
庶務・広報等のマネジメント部門を一 本化して担当職務として当たらせることにより、
団の運営面の強化及び改革を図ることとした。

この一環として規約を制定し、団の進むべき道等の重要事項を決 定する際は、
団員総会等の民主的な手続きによって決定していく旨を明文化し、合唱団としては最低限・・・いや、
組織としての初期の形態が整うこととなっ た。

更には団内の活性化を図るため、初めて新聞紙上で団員募集を呼びかけ、
外部の血を取り入れ強力に新団員加入を推進し、
その成果は1995年(平成7 年)の8名を最高に、多くの新団員を迎えるという形で実を結んだ。

(下の画像は、大量入団後初めて行われた新年会=平成8年 での集合写真)

 また、技術的な面でも成長の跡は顕著であり、
同年6月に笠懸野文化ホールで行 われた群馬県合唱祭では、
中曽根常任指揮者が男声合唱組曲「柳河風俗詩」を ひっさげ県内デビューを果たした。

まだ未熟さのただようタクトさばきではあったが、男声合唱の持つ迫力と繊細さを、
自らの音楽センスだけを武器に、流れとし ての音楽を表現しきって聴衆を大いにどよめかせた。

あらためて、名実ともに新生前橋男声合唱団がここに復活したことを、
内外に印象づけた大トピックスであっ た。

こうして、団の勢いが戻ってくると、
団から距離を置いていた保守派たる旧主力メンバーが徐々に団の活動に復帰してくることとなった。
排他的な雰囲気を 嫌って去った者を除いて・・・。

どこの集団組織でもありがちな話であるが、
当然、団の主導権を巡って、改革派と保守派との間で確執を生んでいくこととな る。

保守派面々は自分達の不在時にクーデター宜しく、
勝手に指揮者の首をすげ替えられ、主導権を握られたことが面白くない。

しかし、(彼らは決して認めよ うとはしないが)一時的に団を見捨てたという自らの負い目と共に、
団復興の功労者は何と言っても改革派なのは重々分かっており、
技術的にも、中曽根指揮者 の合理的手法を認めざるを得なかった。

創団時メンバーの優越性を誇る以外は、
奇妙なバランス(決して緊張関係などという崇高なものではなく)のもと、
両派の 一進一退が繰り返されながら、建設的な議論が行われた時期でもあった。

だが、その火種は温存され、
そう遠くない将来、青天の霹靂のように、つまらぬ事から 突如決着を見ることとなる。

(つづく)

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音楽は楽しくあるべきか

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10月 012004
 

以前より本稿では、音楽における「楽しさ」と「楽なもの」の意味の違いについて、何度となく言及してき た。いや、そんな事はとうにわかっている、音楽を究めようとすれば、多少の苦難が付き物なのは当たり前だ…と、良識的な貴方はきっと答えることだろう。

し かし、どうだろう。日本国内の世間一般の見方として、「音楽は楽しくあるべき」という論調が支配的なのではないだろうか。

もちろん、音楽が楽しいに越した ことはない。更に一歩踏み込んだ表現で「楽しめなくては音楽ではない」とさえ言い切る場合さえある。

音楽とは音を楽しむべきもの…などと、音楽を目の前に して(それはえてして、音楽的・技術的な壁にぶち当たって、自己を無理矢理正当化する場面に多い)いちいち呪文のように唱えている国は日本くらいなのであ る。

そういった論調を大いに肉付けする事例がある。楽典を重視しクラシカルで保守的な学校の音楽教育のことを、これは「音学」または「音が苦(おんが く)」であり「音楽」ではない!などと、大見得を切って否定的にバッサリとやる場面である。

音楽理論や楽典にとらわれず、自身の才能のみでスーパースター にのし上がった音楽家は確かに存在するが、稀有な例と言うべきで、例外と考えた方が教育上安全であると判断するのは至極当然ではないだろうか。

こういう見 方というものは音楽の大衆化という側面から、日教組による反政府闘争やメディアの発展と歩調を同じくして、特に戦後の世間からは確かに支持され、結果、我 々は誰でも大衆音楽を身近なものとすることができた。

しかし半面、音楽とは何か?という本質論から目をそむけさせてきてしまったのではないだろうか。快楽主義一辺倒の方向へと誘導して来た人々が存在することは確かなのである。音楽と相対する場合、最初から、「楽しくあるべき」と考えることに無理はないだろ うか?今回はこれについて考察したい。

巷に氾濫する「音楽は楽しくあるべき」という、聞き心地のよいこのフレーズには二重の過ちを含んでいると、常々私は考えている。

まず1点目だが、大体において、一口に「楽しい」やら、「楽しむべき」と言っても、「楽しい」という事は一体どんな状況を指すのだろうか?個々人の主観 にはそれぞれの違いがあるのではないか。

合唱練習を例にとれば、練習中に指揮者にミソクソに罵倒されたとしよう。その際、団員の感じ方も一様ではなく、そ れぞれ異なるものだ。こんな目に遭って、もう音楽はこりごりと思う者もいれば、そんな厳しい状況ですら「楽しい」と感じる者さえいるだろう。

だから、「楽 しくなければ音楽ではない」などという、一見普遍的な真理に思えるこの命題は、実はかなり曖昧な人間の感覚を根拠にしているということがわかる。

そんな命 題は所詮、個人の内面の仮想世界でのみ完結される性質のものなのである。趣味が多様化し、個人の価値観が細分化してきている今日では、合唱団のような集団 内では、「音楽を楽しもう!」との合い言葉は短期的な団の求心力になりはするが、この命題への過度な信仰が長びけば、長期的にはメンバーそれぞれがいずれ 同床で異夢を見ることとなるのは火を見るより明らかであり、これが、近年の合唱活動を長期低落させてきた元凶ではないかと疑っている。

蔓延するこういった 偽の真理がどんな音楽環境であれ、(実は半面は当たっているのだが)堂々と認められてしまっている状況に、漠然とした危機感を私は覚えるのである。

次に2点目。これが今回の主題であるのだが、音楽とはそもそも楽しいものなのだろうか?

「音楽」とは、音を楽しむという意だと受け取りがちであるが、そ れは俗説であり実はそうではないのだ。漢和辞典(角川書店編=「漢和中辞典」)で”楽”を引くと、『音楽を奏する意から、たのしむ意となった』とある。

音楽を奏することによって沸き上がる感情・・・これが愉快であったことから転じて、「楽しむ」と字をあてたのである。

音楽を演奏したり鑑賞したりした時に、 『結果として』楽しいかどうか・・・ということなのである。ここまで調べるだけでも、「音楽」という熟語の本意は”奏でられた音そのもの”であり、少なく とも音を楽しむという人間の行為としての意味ではないことが容易にわかろうというものだ。

そもそも、「音楽」って単語が勘違いのもとなのかも知れない。この場合の、”楽”は、「雅楽」「器楽」と同様の意味なのは言うまでもない。「楽隊」という熟語が、何やら楽しげな一隊という意でないのと同じである。音楽 が楽しいかどうかは、当事者の主観によるのであって、それを一般化して話をすることはきわめて危険な事であることを、ここでは強く指摘しておきたい。

試しに、「音楽とは音を楽しむ…」などという短文をGoogleあたりで検索してみると、これに肯定的なサイト(またはページ)が320件余り…、否定 的なサイト(またはページ)はたった1件しかヒットしなかった。このことからも、音楽=音を楽しむの意として広く受け入れられていることがわかる。

肯定的 なサイトは、音楽産業や音楽専門教育機関、音楽教室等によって営まれており、「音学ではなく真の音楽を・・・」などと、ネット上で客を得るための恰好の宣 伝文句として使われていた。

また、サイト管理者がプロ・アマを問わず音楽系の仕事に就いている者の場合、技術的な壁にぶち当たった場合などに、「でも、音 楽は音を楽しむものだと思い直して…」などと、自らの掲示板やブログで自己弁明の目的で使っている場合が多く見られた。

前パラグラフでは、危険性があると 述べたところだが、ネット上では既に実害を及ぼし始めていると見た方が賢明なのかも知れない。

音を楽しまないかい?という甘い誘いに乗って、ある人は音楽 的な壁を乗り越えられずにこんなはずではなかったと嘆くだろう、またある人は、壁を乗り越えないことこそアマチュアリズムの真髄と、逆に胸を張って見せる だろう。

音楽の芸術的な面とは相容れない商業的な匂いと不純な動機が見え隠れしては、こうなって利を得るのは誰か…?などと、勘ぐりたくもなる。いずれに せよ、この辺りが、すそ野は広いが頂点が低いと揶揄される日本の音楽水準たる今の限界なのかも知れない。

「音楽とは何か?」という抽象的な大命題に対し、言葉で表現し尽くそうとすることには元々無理があるし、およそ無意味なものである。

この至上命題につい ては古今東西を問わず、幾多の音楽家がこれに答えようとしてきた。その答えこそが彼らの生み出した作品そのものなのであり、それは音楽を通してしか表現で きないものであったから。

だから、音楽は楽しくあるべきなどという極めて限定的な一側面は、音楽を志そうという者にとっては良い道標にこそなるが、音楽と いう深遠な抽象の渦の前では、やはり意味をなさないと言うよりほかないのである。

音楽という得体の知れぬ宇宙を語るとき、そこにはエンターテインメント性が極めて高く、容易に商業主義と結びつきやすい部分が必ず存在するものだ。しか し、ごく一部を占めるに過ぎないその部分にだけスポットライトを当て、それが音楽の全貌であるかのように主張する論調には、今後も反論し続けていきたいと 考えている。

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