創立15周年特集記事(その2)

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(つづき)

こうした保守的メンバーの返り咲きは、また新たな動きを生むこととなる。 1994年(平成6年)より、前団長の母校である前橋高校音楽部OB合唱団が結成され、その団長に、やはり旧主力メンバーの一人が就任したのだ。

元々、前述の7人の侍の中に前橋高校音楽部顧問教師がおり、彼の依頼で前団長が声楽指導を行っていた。

前橋市内の二つの男声合唱団による交流の場としてという意味でも、毎年8月旧盆に開催の同団定期演奏会に対し、前橋男声合唱団は以後数年間賛助することとなり、これを契機に前橋高校音楽部現役メンバーと練習時間を共にする等、ますます関係を深めていくこととなるの だ。

(画像は、1998年=平成10年9月13日 草津町・ホテルビレッジで行われた強化合宿での集合写真)

彼らとの結びつきは、新団員供給源としても魅力的であり、保守派はそれを喧伝し、改革派もそういった必要性を認識していたが、その実体は「交流」という呼ぶにはほど遠く、年一度のOB合唱団定演での運営や技術に関すること(やはり彼らにはそ ういう明確な概念はやはり念頭にほとんどなかったと言えよう)には、我が団の関与は全く拒否され、限られた一部の面々によって排他的になされることとなった。

当然、技術的運営的に大型演奏会の場を経験したことのない彼らの、限定的で特殊なイメージの中でのマネジメントはお粗末な代物と なり、 演奏会自体の性質はその演奏精度よりは同窓会的な性格が色濃く、前橋男声合唱団員と前高OBを兼ねていなければ、何の魅力もないイベントに成り下がっていた。

また、経験豊富な当団からスタッフ派遣を要請されることもなく、もちろん当団からの企画段階での賛助を打診しても梨の礫なのであった。

賛助側の常任指揮者である中曽根女史が一度もステージを依頼されていないことも、閉鎖的な性格を示す証左の一つといえよう。

こうした前高OB合唱団定演に対する路線の潜在的な対立は、1999 年(平成11年)度より、「団員による自由賛助」という形で一応の決着を見た。

なぜなら理由は二つあった。一つは新団員の供給源としてほとんど機能しないことが明らかとなり、むしろ、現役メンバーの大学進学後に合唱を続ける人間がごく僅かという状況だった事。

そして二つ目は、旧盆のトップシーズン期は、独身のOB貴兄ならまだフリーな 時間があるだろうが、家庭持ちの前橋男声団員にとっては、音楽的完成度の低い同定演にわざわざ参加することの意義に疑義が生じ始めており、距離を置く必要を感じていたという事・・・この二点である。

しかし、この措置に保守派は反発し、運命の2001年(平成13年)9月へと繋がっていく。

こうした甚だ輻輳した事情を孕みながらも、どうにか団員数も20人近くまで回復することができ、(ただし前橋高校を含む)1996年(平成8年)6月には念願の第一回目の演奏会の開催に漕ぎ着けた。

以後、次回単独演奏会への体制整備は更に強化され、運営面ではマネジメントグループ制を導入、年々膨らむ一方であったマネージャーの業務を分担・専門化させ、常時4人体制とすることにより、大型演奏会への対応力を高めた。

また、パートリーダーを規約内に明文化し、パートの技術に責任を 持たせることで、一層の技術力の向上を図った。

第一回演奏会以降、毎年、県合唱祭に出場。1997年(平成9年)には県内アマチュア音楽団体の成功の見本ともなった、「からす川音楽集団」合唱部(現 KOS合唱団)定期演奏会に賛助出演、

1998(平成10年)年10月には県内の混声合唱では実力ナンバーワンの呼び声高い、「群馬室内合唱団」定期演奏会 への賛助出演を経て、いよいよ1999年(平成11年)12月には、創団10周年を記念した第二回演奏会を、念願の本拠地前橋の前橋市民文化会館で挙行することができた。

また、2000年(平成12年)12月には、若々しい伸びやかな歌声が評判の「合唱団葡萄」定 期演奏会に賛助出演。

2002年(平成14年)6月からは、新島学園聖歌隊定期演奏会に毎年賛助出演するなど、活動も再びアクティブなものに変貌を遂げて きている。
(写真は第二回演奏会開演直前スナップ)

(つづく)

 

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