本家「ニュース」欄より”オピニオン”を移植

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2月 042011
 

かつて、前橋男声合唱団ホームページの「ニュース欄」内のコラムであった、「オピニオン」欄を、
このほど、本ブログに移行することとしました。

まだ移行作業の途中ですが、サイドバーの右下の「カテゴリー」から、 
『過去のオピニオン』をクリックして頂ければ、ご覧頂けます。

今読み直すと、少々前時代的な匂いも確かに致します。
時代の動きが、それだけ速いと言うことなのでしょうか・・・。

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群馬県合唱祭 ←全合唱団が、ホントに鑑賞義務を果たしているのか

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10月 242008
 

合唱祭出演団体が、自らが出演するブロックの時間帯における鑑賞が義務づけられていることについて、合唱祭の目的と手段をはき違えたものであると、筆者は過去にエピソードを交えて批判したことがある。(こちら

しかし、今回はどうだろう。客席に着いてみて、客入りがやけに少ないのだ。音楽センターのキャパは1932席。Bブロックの出演団体の合唱団員数は483名。

このうち、3~4割が出演手続きに入っていると仮定しても、300名程度の客席(約6分の1ですね)は埋まっているべきであるのに、常時せいぜい100名を越える程度の客席占有率ではなかったか。

特に一般客の入り込み数など、この数字から推して知るべしだ。各団体にチケットノルマを課しておきながら、一般客のこの少なさは深刻な事態である。

しかも、出演団体のメンバー全員には、事前に「出演者証」なるものが交付され、会場に出入りする際には係員に提示することになっているが、このチェックが全くない。

私も数度出入りを繰り返したが、どの扉においても、係員から呼び止められることも出演者証の提示を求められることも皆無であり、それは私以外の大多数の出入りする者に対して同じ。そう、事実上のフリー入場状態なのだ。

あれでは、不審者の侵入さえ許してしまうだろう。これらのことから何が言いたいかというと、もちろん危機管理意識の欠如等問題点は山ほどあるが、一点に絞って指摘すると、全ての団体が本当に課せられた鑑賞義務を遂行しているのかという疑念・・・、これである。

一昨年から始められたこの義務づけ。昨年は前橋男声合唱団は不参加だったので、実施状況が不明であるが、この現状を目の当たりにして、早くも形骸化の気配濃厚であることを感じ取った次第である。

元々、合唱祭の改革らしきものとして下策を講じたのが間違いの始まりである。現状認識が的確でないから対応策も問題の本質からほど遠いところで迷走するしかない。

一旦下策で走り出したのだ。このうえ、下策さえも満足に遂行できないのでは目も当てられない。合唱祭運営当局は一刻も早く、下策は下策なりに再度周知徹底させるか、もしくは早々にこの義務づけを撤回して、ボタンの掛け違えをただして旧態に復するとともに、一般客の呼び込みに更に注力するなどして、本来の目的である合唱振興に邁進すべきなのではないか。

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早期の県連盟サイト開設を希望

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1月 152008
 

全日本合唱連盟のサイトでも確認できるのだが、各都道府県レベルや都市レベルでの合唱連盟サイトがリンク されている。群馬県合唱連盟はまだサイトを持っていない。

平成14年度の連盟定期総会で事務局長がホームページ開設に前向きな発言をしてから5年以上が経過した。
(→こちら:「群馬県合唱連盟総会レポ」で確認できます。)

地方合唱連盟で自前のサイトを設置していないのは、47都道府県中14。関東甲信越では、群馬県と茨城県だけとなった。インターネットにより情報発信するメ リットデメリットは今更論じるまでもないが、
なんとも勿体ない話である。同じ音楽愛好の群馬県吹奏楽連盟は既にサイトを開設して数年を経ている。

考えてみればこの10年余りの間に、インターネットという手段を用い、情報を手軽に検索しアクセスできるようになったが、人々は、知りたくとも検索不能 な情報に対してどのような 思いを抱くのだろう。

大半の人は、そこで諦めてしまうのではないか。その後、目的とする情報にたどり着くことのできる人は、恵まれた環境にあり、なおかつ 熱意(執着?)のあるほんのわずかの人たちだけなのではないか。

「情報格差」なる言葉が登場して久しい。それは当初、ITインフラへの設備投資状況が都市部で進み、地方部で遅れていた際に盛んに喧伝された言葉 である。光ケーブルやADSLなどは充実し、かなりその差は縮まってきているのは実感できる。

ハード面はこのように環境が整いつつあるのに、それをみすみす活用せ ずに情報格差を発生させているから勿体ないと言ったのである。さらに、10年前ならサイトを開設していれば「進んでいるね~」と羨ましがら れただろうが、今やサイトを開設してて当たり前、開設してなければ逆に「遅れている」という印象を与えかねない時流の変化だ。

確かに、昔ながらの年賀はが きは、その発行部数を減らしながらも日本人の習慣としては健在で、間違いなく傘下の合唱団には届くが、合唱団員レベルや県下の合唱愛好者や合唱に興味を持 つ若者らには、連盟の活動に関する情報が ほとんど伝わらないというのが現状であろう。

また皮肉なことに、本ニュース欄へのアクセス解析をしてみると、なんと、「群馬県合唱連盟」という検索ワード がトップなのである。(まぁ、本欄過去ページにはいろいろ連盟に関しての記述があるしHitしますわな、それをきっかけに、当団を知っていただくメリット は享受していないと言えば嘘になるのだが・・・)

これは、言わずもがな群馬県合唱連盟関連の情報を欲している人々が、多数存在している何よりの証左であり、これらの需要を満たすべく広報に力を尽くすことが連盟に求められているのではないだろうか。

先般催された「第一回声楽アンサンブルコンテスト」においても、結果発表が20時近くと比較的遅い時間となったため、結果を知らずしてやむなく家路につ いた合唱団員も少なくないだろう。

しかし、帰宅してから合唱連盟ホームページを開けば、容易に結果を知ることが可能な時代に私達は生きており、生活の ある場面場面では、そういう即時性の恩恵にあずかる場面は年々多くなってきているのだ。

だがいずれ、恩恵としてありがたがっていたものが当たり前のものとなる時代がもう目の前に迫っている。その時に合唱連盟がどんなサービスを提供できているだろうか。

月並みではあるが、これからの時代、合唱文化の発展と向上を目指す・・・(確か、連盟の規約にそう謳われていたかと)のなら、地方連盟としてはぜひサイトを持 ちたいも のである。さもないと、都市と地方に顕在化した格差はますます広がるばかりである。

サイト開設により連盟事務局と傘下合唱団の間の事務処理は格段に省力化される だろう。全合 唱団がすぐに対象となる可能性はきわめて低いが、諸イベントの通知や申し込み手続きなど、これによる通信費だけでなく、何より人件費(たとえ連盟会計に計 上されないボランティア的なものであっても)の大きな削減に貢献するだろう。

浮いた予算はサイトの運営経費に充てても良い。このように、目の前に転がるサ イト開設によるメリットは結構あるものだ。

群馬交響楽団を抱え、音楽文化が先進的であると思われがちな群馬県であるが、その実それに深い意味も考えずに安住してきたことにより、深層の地盤沈下に 気づかず、または気づいても見ぬふりを続けては来なかったか。

これに関しては別に論じることとするが、折角「群馬県合唱連盟」という検索ワードを入力した 人を失望させずに、群馬県の合唱への適切なイントロダクションとなるよう、連盟サイトの開設を希望してやまない。

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合唱が好きです(寄稿〜団長・山岸 晃)

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10月 012006
 

 中学2年の時に音楽の授業で「草原情 歌」という曲を習いました。休み時間に同級生と歌うのが楽しく、「はーるーかーはなれえー たー」と誰か歌い出してくれないか、と私はよく念じていました。それから数十年。合唱のクラ ブに入ることも、演奏会に行くこともなかったのですが、合唱をしたいとの思いが募っていまし た。そんな時、前男の募集広告を発見。確か見学のときに聴いたのは「柳河風俗詩」のなかの一 曲だと思います。男声合唱の経験がなかったので、かえって衝撃が大きかったのかもしれませ ん。大の大人が一心に歌う姿、歌詞はよくわからないけれど私も一緒に歌っているような感覚。即入団を決めました。
 入団して11年。合唱の練習は行きつ戻りつを繰り返すことが多いですが、私のペースに合っています。時間切れで練習が終わるのを残念に思うことも度々です。また、呼吸・発声の時間は苦手ですが、上達していけばもっと充実した練習ができるでしょう。
 今回団長となり、その役割を担う責任を感じていますが、同時に、今後もいっそう合唱を楽しんでいきたいと思います。中曽根先生、団員の皆さん、お世話になります。

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合唱祭当日案内を嗤う

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9月 012006
 

 今年のおかあさんコーラス群馬大会で、参加団体の拘束時間が長くなったことは、ここ(雑感・コンクールにて)で既に記した。その中で懸念したとおり、このほど参加合唱団宛に届いた来月10月8日(日)に開かれる群馬県合唱祭の当日案内 においても、同様に出演合唱団が、自らの出演する時間帯(以下「ブロック」という)において、自らが出演するために純粋に費やす時間以外は、会場内で演奏 を聴くよう強制されているのだ。それでは、当団に届いた当日案内の問題箇所を抜粋して記す。

————————————(抜粋ココカ ラ)———————————–
(前段略)
 12. 出演と鑑賞について
   ・入退場口通過の場合は、すべての方が出演者証か入場券または半券を提示する。
 (1)出演団体合唱団員の皆様へ
  ・本事業は合唱連盟の中心となる事業の一つであり、合唱団の皆様にとっては、
   日頃の合唱練習の成果を発表する場として、また、互いの合唱を聴き合う貴重な場でもあります。
   十分にその趣旨をご理解頂き参加されるよう、切にお願いするものでございます。
   従って、今年度より次のように一日を3ブロックに区分けし、そのブロックの時間帯は出演・移動時間を除き、
   座席について頂くことと致しました。
   また、誘導係は、集合場所→更衣→練習→出演→写真→更衣→解散場所まで誘導することと致しましたので、
   ブロック内の時間帯は、座席にて鑑賞いただくよう御願いいたします。
   なお、会場のホール出入口には係を置いて出入りをチェックさせて頂きますのでご承知おき下さい。
   受付時に配布された出演者証は、退場時に受付へ返却するようお願いいたします。
    ※ 出演者証はブロックごとに色分けされております。
 (2)一般の入場者の方々へ
    入場時に渡されたチケットの半券は、退場・再入場時に提示していただきますので、
   最後までお持ちいただきますよう、お願い致します。

鑑 賞 の た め の 拘 束 時 間 帯
時間帯 Aブロック・・午前10時00分から昼食休憩開始時刻まで(凡 そ12時35分まで)
    Bブロック・・午後1時15分から休憩開始時刻まで(凡そ3時55分まで)
    Cブロック・・午後4時15分から閉会行事終了時刻まで(凡そ7時15分まで)
出 演 団 体 受 付 時 間(集合場所への 集合時刻は進行表をご覧下さい)
 Aブロック時間帯 10:00~12:34【18団体】《昼食休憩 12:35~13:15》
       【Aブロック出演団体受付時間 9:20~開演10:00まで】
 Bブロック時間帯 13:15~15:55【20団体】《休  憩15:55~16:15》
       【Bブロック出演団体受付時間12:00~開演13:15まで】
 Cブロック時間帯 16:15~19:15【17団体】
       【Cブロック出演団体受付時間15:30~開演16:15まで】

(後段略)
————————————(抜粋ココマ デ)———————————–

 あまり気がすすまないが、以下、一々コメントしておく。2006年5月号の小欄をお読みに なって飽き 飽きされている方は読み飛ばしていただいて構わない。なお、赤色表示は今回の当日案内のくだり。緑色表示は筆者の独り言である。では始める。

1.  本事業は合唱連盟の中心となる事業の一つであり・・・
A. ふむふむ、まぁ、連盟の規約にも載っているし、そりゃそう だ。

2. 合唱団の皆様にとっては、日頃の合唱練習の成果を発表する場 として、
  また、互いの合唱を聴き合う貴重な場でもあります。
B. 合唱祭の場を、参加する側がどう解釈しようと勝手であるが、
  主催者側がそのように規定しきってしまうのはいかがなものか。
  各合唱団にとって、合唱祭をどのように位置づけるか、自由裁量に任せる部分はあって然るべき。
  (例えば、翌月の定演に向けてのステップの場・・・とか)

  また、後段の「互いの合唱を聴き合う貴重な場」というのは、
  今年から連盟事務局がやおら吹聴し始めたスローガンであり、後付け理由の感が拭いきれぬ。
  実際にチケットを発行しておきながら、(開催地の地元合唱団にノルマを課しているのに)
  その、聴きに来ていただいたお客様を第一に考えず、
  「互いの合唱を聴き合う貴重な場」をまず一番に持ってくるとは、どういうこと か。
 
  確かに会計上は、合唱祭の事業収入の大部分は、参加合唱団の参加料だろう。
  一般客からのチケット収入とは比較にならない。
  だからと言って、それが、お客様軽視の理由とはなるはずもない。

  お客様を第一に考えていれば、合唱団員のモチベーションを下げる恐れのあるリスクを冒したり、
  各合唱団の演奏条件が不平等になるような、変チクリンなシステムを思いついたりしないだろう。
  マネジメントが良い演奏を引き出せないだけでなく、積極的に良い演奏を殺しに行ってどうする!
  
  お客様に、いかに良い演奏を聴いていただくか・・・、
  マネジメントの動機は、これだけで十分である。

  だから、今回の「互いに聴き会う場」などという、急ごしらえのこのスローガンなぞ、
  主催者側が一般客の誘致に真剣でない事実や、県民に対する合唱芸術の広報の怠慢というものを、
  上客とは一般客であるべきを手軽な参加合唱団メンバーにすり替えることによって、
  巧妙に隠蔽する意図があるのではと勘ぐられても仕方がない。

  (しかし・・・、そういう巧妙な仕掛けを考えられるくらいなら、まだ救いがある。
   深く考えない、短期的な思いつきの視座が見え透いているから、私は拘泥するのである)

3. 十分にその趣旨をご理解頂き参加されるよう、切にお願いする ものでございます。
C. お互いの言い分における前提条件が異なるので、理解は不可 能。
  ”切に”とか、”お願い”とか選挙運動のようなコトを言われても困る。

4. 従って、今年度より次のように一日を3ブロックに区分けし、
  そのブロックの時間帯は出演・移動時間を除き、座席について頂くことと致しました。
D. はぁ?
  「従って」?なんで「従って」という接続詞がくるのか。
  客観的に見ても理解できないことを述べておいて、「従って」はないだろう。
  百歩譲って、主催者が規定した「合唱祭とは互いの合唱を聴き 合う貴重な場である」ことが真であるとしても、
  だからといって、全ての参加合唱団が座席について聴くことを強 制される理由とはなっていない。

 どうみても、上述のように、「2. → 4.」の所でロジックが破綻している。「頼むから聴いてよね!」というのなら、まだわかる気もしないでもない。 はたまた、2.と4.の間に、何かが隠れているのかと考えてみたが、いや、ロジック など皆無だとしか思えない。もし有るとすれば、「理事会や事務局での決定事項は、構成合唱団は従うべき」という上意下達の論理だけだろう。

 くどいが、今回の改悪のデメリットを改めて主張しておく。

○会場内が演奏の合間に合唱団員達でごった返し、一般客にとって迷惑となるおそれが大きい。
○拘束時間が長い(メンバーのモチベーション維持に重大な影響)
○同一ブロック内合唱団間の平等性を欠く。
 (同一ブロック内でも早い出演順番の合唱団と遅い合唱団では公平な演奏条件とは言えない。
  たとえば、順番の早 い合唱団は、昨年までの合唱祭とほぼ同様の条件で演奏に臨めるが、
  順番の遅い合唱団は、自分の演奏前に客席に長時間にわたって釘付けにされ、
     《→ちなみに当団は、約1時間、客席に座っていることを強制される。
       何と、たとえば「みどり会コーラス」などは、約1時間 45分も座席に拘束!》
  モチベーションを落とすメンバーが大多数であろう。これだけ長時間聴かされれば、
  体調を崩す人間が出てもおかしくない。)

 以上より、参加合唱団が最高の状態で演奏に臨めるマネジメントからはほど遠いことだけは確かなのである。しかも、一般客を呼び込む努力はほとんどなされ ていないに等しい。逆に、演奏の合間の客席を騒々しくさせ、一般客を遠ざける結果になるのではないか。
 このようなリスクが明白であるのに、本件のような事を強行するのはなぜなのだろう。デメリットを少しも覆すことの出来ない今回の措置には全く首を傾げざ るを得ない。録音テープ頒布を廃止して、各合唱団における技術力向上のよすがを奪った。我々のようなコンクールにも参加しない合唱団にとって、合唱祭は貴 重な本番機会である。開催時期を秋の連休中日に変更して、団員を運動会や行楽から分断させてまで参加させ、逆に参加したくとも参加できない団員も顕在化さ せてしまった。そして今回は拘束時間を長くして、参加できた団員個人にダメージを与えようというのか。
 県内では著名な指揮者が多数名前を連ねる連盟理事会もが、なぜこのようなミスリードを続けるのか。全くもって事実は小説よりも奇なりとは、 このことかも知れない。

 批判ばかりではどこぞの政党と同じなので、建設的な(現実的な)提言を行いたい。
当然、このような無意味でリスキーな拘束時間を撤廃することが第一であるが、
来年以降、連盟主催のイベントで同じシステムでいくのであれば、せめて、次の二点に留意願いたいのだ。

1. 合唱団員席と一般客席を完全に分離する。
2. 合唱団員に、客席でのマナーを徹底させる。

1.について。
合唱団員が着席できる区画を物理的に仕切って一般客と完全に分離すべきだ。該当時間帯における団員の総数は把握しているのだから、必要な客席数はすぐに算 出できるはずだ。参加合唱団の一般客の視界を遮らない箇所で、出入り口に近い区画や、最後部の区画などは、合唱団員専用としたらどうだろう。例えば、 NHK学校音楽コンクール(全国大会)では、二階席を一般客席、一階席を参加合唱団員用に使用させている。

2.について。
6月号でも書いたが、今回の合唱祭で次のようなことが あった。ステージではちょうどある団体の演奏が終わり、退出する合唱団員、入場してくる合唱団員たちが交錯している中、席を確保した団員が(註;演奏を既 に終えたであろう一合唱団員=女性)、大声で仲間を呼び寄せ着席したまではよかった。この間、アナウンスは流れ、次の団体がオンステし、指揮者礼がなさ れ、拍手が鳴りやみ周囲が静寂に満たされても、その女性はなにやらバッグをまさぐっている。どうやらバックの中にしのばせているのはコンビニ袋のようだ。 ご存じの通り、あれは、結構耳障りな音をまき散らすものだ。中から飴らしき一品を取り出し、騒音はこれで止むと思われたが、その飴は小袋に包装されている らしく、客席の暗闇の中、ビニル製の小袋を破るのに難儀しているようだ。その間、ビニルの擦れる音が響き渡る。やがてその女性は目的のブツをようやく口に 放り込むと、「はぁ~」と小声を漏らしながらため息をついたのだった・・・。
一人でくつろいでんじゃねぇぞ!!ゴル!!!

たまたま、今回の合唱祭における最悪の客席シーンに居合わせてしまっただけなのかも知れないが、傍若無人のおかあさんコンクール群馬県大会での客席での騒 動を目にしている私には、参加団体がダブっているこの合唱祭においても、今回の出来事は氷山の一角なのではないかと思っている。連盟は、客席に合唱団員を 釘付けにするのなら、客席マナーを守ることを徹底させるべきだと考える所以である。

 21世紀に入って、群馬県合唱祭は変質してしまった。確かに改革の必要性はあったのだが、時勢の判断や戦略、利害得失の把握や対処戦術が的確性を欠き、 いずれも主観の域を出ず、ますます隘路に入り込みつつあるように思えてならない。

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雑感(コンクールにて)

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6月 012006
 

5月初旬、高崎市の群馬音楽センターで、「おかあさんコーラス群馬県大会」が開かれた。県内各地から、54団体が参加し、朝10時から夕刻まで、持ち 時間 8分のステージで、持ち前の個性を生かし、それぞれの合唱力を競い合った。この中から24団体が県代表として、7月の関東大会に挑むことになった模様だ。

私はエントリーしている合唱団の演奏をくまなく聴いたわけではないが、今年から、客席の状況が一変したのに気がついた。どう変わったかというと、参加団 体のメンバー達が、自分の出番の前後で、お行儀良く他団体の演奏を聴いているのである。

確かに、昨年までは、他団体の演奏には目もくれず、現地集合→現地 解散が常態化していたものだ。何やら今年からは、連盟事務局の指示があったとのことで、演奏団体のタイムテーブルにこのような項目が追加されたのだとい う。

私は一般客の立場で会場を訪れていたに過ぎないのだが、とにかく、出演合唱団が交代するほんの1~2分の間、客席への出入りで騒々しくなり、会場内が ごった返すのだ。

時々、良い演奏に出くわしたとしても、その終演直後から高らかな笑い声と共に、前方に陣取っていたオバサマ軍団が一斉に立ち上がり自分た ちの演奏へと向かっていく。まるで、演奏直後の余韻を乱暴に切り裂いてゆくかのようだ。

対して、入場してくるオバサマ方も、電光石火の座席確保劇を演じて いる。むろん、ドアには開閉を取り締まるスタッフが常駐しているのだが、客席内のスタッフは不在で野放し状態であった。

一体、変更の理由は何なのだろうか?想像するに、現在の合唱界が抱える問題の発現としての二つの状態、すなわち、客入りの芳しくない状況と、高齢化によ る技術の劣化…、これらを一挙に解決することを狙ったとも考えられる。

これにより、歌う側としての合唱団員を一時的に聴き手に転用し、表面上は客入りが寂 しい状況である現実から目をそらすことができる。更に、こうして多少なり出場団体に研鑽を積ませることによって、事務局としても、技術力アップに決して無 頓着ではないとアピールが出来るというものだ。

しかし、一般客の立場として言わせていただけば、甚だ迷惑な客席の状況にしてくれたものだとしか言いようがない。

我々一般客は、審査員よろしく純粋な演奏時間中だけ感覚を研ぎ澄ましているわけではない。はっきり言って、聴かせられる演奏によって、居眠りもすれば、心の中で耳を塞ぐことだってある。だから、 折角演奏で好印象を抱いていたとしても、ステージの合間に不快な雑事が入り込むことによって、その高揚した気持ちは忽ち失せてしまうものである。

三度のメ シより合唱が好き!という向きにとっては、最悪、気分を大いに害して家路につくなんてこともないとは言えないという重大な事態である。ただただ単純に合唱 を楽しめる環境を提供していただければ、それで良いのに、だ。

また、歌う側から見ても、必ずしも良いとばかりは言えないのではないか。建前としての、他団の演奏を聴いて学ぶべき所を学ぶという目的はよくわかるが、 本当に聴きたい合唱団の演奏を、実際は聴くことが出来ていないのではないか。

元々、特定の他 団の演奏に興味がある人間なら、このような絶好の機会、既に目星をつけて積極的に客席に向かうものだ。逆に言えば、事務局が合唱技術に無頓着だったからこ そ、聴く価 値を見いだせない演奏をする合唱団ばかり乱立させてしまったという考え方もできるのではないか。

また、いたずらに拘束時間を長引かせ、大事な本番直前の合唱団員達を客席に釘付けにして、折角アップしてきたモチベー ションが低下する可能性も高い。確かに、全合唱団が同じ条件下に置かれるのだから構わないのではと反論されそうだが、やはり、最高の演奏をしてナンボのコ ンクールである。マネジメントが良質の演奏を引き出すことができなくて、何のためのマネジメントであろうか。

そもそも、広報によってお客さんを集めるという基礎的なマネジメントは、当然主催者側が周到な準備のもとに実施すべきであって、客入りの多寡は主催者側 の責任に帰す。それを、リスクを承知か不承知かはわからないが、とにかく一般客に煩わしい思いをさせてまで、連盟加盟構成員に転嫁させるとは、なかなか良 い根性をしている。(苦笑)

物事のルールを変えるとき、予想されるメリットとデメリットを分析し、総合的な検討の中で、導入した方が合理的であり得策だと判断されるのなら、その変 更は致し方ないだろう。

しかし、合唱技術の振興を図るべき合唱連盟は、果たしてきちんと分析をしているのだろうか。

見通しや根拠に乏しく、いわば思いつき に近い変革を、近年の群馬県合唱連盟がその事務局を中心に場当たり的に行ってきていることは小欄にて何度も報じてきているところだが、理事長が代わったと はいえ、体制の本質部分こそは何の変革もなされていない疑念が露見した今回のイベントであった。

10月の合唱祭でも同様な通達をするか不明であるが、今回のように出演合唱団の拘束時間を長くして、その動線を客席内で輻輳させるのは、一般のお客に とっては迷惑以外の何ものでもない。また、合唱を振興する立場の主催者側が、その対象者をして合唱から去らしむるやも知れぬという矛盾した可能性を孕むこ とを肝に銘ずるべきであろう。

(以上、「オバサマ」という表現を使っているが、贔屓目に見ても、少なくとも50代以上の年輩の方が大半であり、「ご婦人」「女性」「貴婦人」等々、他の 表現を用いることも検討したが、私が実際に目の当たりにした彼女らの傍若無人の所作振舞を適切に表現する三人称を勘案したところ、これを採った次第。特 に、実際に当日出演された方で不快に思われた方がいらっしゃれば、ご容赦願いたい。)

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新年にあたって

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1月 012006
 

今更ながらだが、いわゆるネット社会に我々は生きている。そこそこの経済力さえあれば、家 から一歩も外に出ずに生活できてしまう。

さすがに、どっぷりそういう環境につかる訳にはいかないが、世界中の商品をネットショッピングで取り寄せる事が、 ごく普 通に行われ、我々庶民にもそういう生活様式が徐々に浸透してきている。

そんな中、合唱という 趣味が不変(普遍ではなく)性を守り続けていることは、実は特筆に値する事なのかも知れない。

何十年前と同じく、メンバーが一つの決められた場所に三々五々集まることなしに、絶妙なハーモニーを奏でることなど出来ない のだから。

そして何より、何世紀も前から、音楽の創造というものは自由な感性によって大きく支えられ、それによってのみ成し得る事象であるから。

物や情報があふれかえり、物事の本質というものが甚だ見えにくくなっている。物量の氾濫により、本来なら感性というものの価値は相対的に上がって然るべきだが、その感性が呑み込まれてしまうほどの勢いである。

我々は自己の存在を確認するため、自らが生きた証を求めるため、そして、自らの内なる精神を具象化 するために、「表現」という、ひじょうに人間的な創造活動にいそしんできた。

この21世紀という時代に、我々は自らをいかに理解し、正確に表現して、伝えていくか。そしてこの時代を生き抜くために、物事の本質を、強い意志を持って能動的に捉える研ぎ澄まされた感性が必要なのである。

我々現役の企業戦士は、定年後になって初めて自由な時間を手にすることだろう。その時になって、あらためて男声合唱に取り組もうとしたとき、そうは思っ てみても既に、 肉体的な訓練には耐えられない可能性が高い。

この期に及んではもうトシだから仕方ないと、ひとりごちるしかないのだろうか。

振り返ってみれば、既に、我々はあれこれ言い訳をしながら合唱とつきあっている。晩年に至ってまで、自己正当化多き人生とはしたくないものだ。できることなら、合唱の前では裸の自分でいたいと思う次第である。

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「オレ一人くらい居なくても、大丈夫だよね!?」

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5月 152005
 

今回のお題目は、仕事やプライベートにおける何らかの都合で、演奏会に乗れなくなったり、練習に出られなくなる場合などで、その当人が、去り際に口走る セリフの代表なのである。(とはいえ、それを槍玉に挙げようとかいう意図は全くないので、最初に断っておく)

本人にとっては、自らの罪悪感を少しでも打ち消すための一方便でしかないのだろうが、そんなとき、私は長嘆息を禁じ得ない。「いえいえ、そんなことはないですよ!○○さんがいなければ、大打撃です…」と、先方には社交辞令にとられかねない言葉で応じる。しかし、それは決して社交辞令なのではなく、いつも裏表のない本心なのだ!

そして、やがて私は立ち上がることが出来ないほど大いにショックを受ける。そのお方に、歌唱力や声量がどんなにあったとしても、その損失はさしたる問題で はない。要は、合唱に対する考え方の、最も重要な根底部分について、『ああ、今まで一緒にいながら、この人とは全く違っていたのだ!』という厳然たる事実を突きつけられるほど、大きい衝撃はないからだ。

よく合唱は城の石垣に例えられる。大きい石や小さい石、ごつごつした石、丸くてなめらかな石…、コケの生えた石、切り出されて間もない新しい石…、様々な石が組み合わされて、石垣はできあ がっている。

それは、合唱(団)というものが、いろんなタイプの人間からできあがっていることを、象徴的に表していることは言うまでもない。全く誰が最初 に言ったのか、この例えにはただただ感心するよりほかはないと、常々思っている。

合唱に限らず、組織形態をとる様々な集団というもの…、人間が集団としてある目的を遂げようと意図するとき、やはり、「城の石垣」のフォーメーションは 最適な陣形なのであろうか。そこには長い歴史の中で人間が組織的に行動する際に必要な知恵が、システム化されて詰まっている。

個性がぶつかり合わざるを得ない集団という枠の中で、数多の主張や議論が調整、そして集約され、最大の力を発揮しうる石垣という構造。構成する石にはそ れぞれ、外力を受け持てる屈強な部分と、逆に壊れやすい軟弱な部分とがある。

世に言う「適材適所」という言葉の所以である。それを職人芸のセンスを持つ指 揮者の慧眼によって、絶妙なポジショニングで使い分けられ、組み合わされている。

石の強度や特性も、時と場合によって異なり、構造を強く保つために場所の入れ替えもするなど、長期的な視点に立った、根気強いメンテナンスが必要だ。そして一定秩序のもと、それぞれが上方からの加重を分担し、持ち場を守り、きちんと役割を果たしていくことにより、石垣は堅牢・重厚となり、美しささえ発揮 していくことになる。

それはまた即ち、構成する石のうち一つでも欠ければ、石垣全体に重大な危機をもたらすということも意味する。なぜなら欠けてしまった石と、サイズや特性 等が同一の石などこの世には存在しないからだ。下手すれば、基礎部分からの設計施工のやり直し…、なんてことも覚悟しなければならない。

以上、合唱とこの石垣の話は必ずしも必要十分に完全一致はしないのだが、私はおおむねこのように考えているところである。だから、表題のようなセリフ は、特に私にとって、なにやら別世界のフレーズに聞こえてきてしまい哀しいのだ。そして哀しみに打ちひしがれながらも、そのフレーズを噛み締め、私は、一 度は去って行ったあなたを、首を長くして待ち続けるしかない。

個人の価値観が多様化し、それが尊重される時代となった現在、実は表題の言動自体、当たり前と言えば当たり前すぎる現象であるのだが、集団芸術とし ての合唱にとって、危険なにおいを感じ取ってしまう。それは、前述の石垣の組合せの是非というより、もっと根本部分に関する事だ。

再び例え話になって恐縮だが、案外上手く説明できるので引用する。地上に石垣を構築しようとした場合、まず問題になるのは、その地盤の程度であること は、土木の専門家でなくとも想像がいくだろう。軟弱地盤上には、いくら立派な構造物を設計したとしても、実際に建設する事がかなわないことは明白である。

私は、特に最近、この地盤の様子が変わってきている・・・、いわゆる組織力の低下というものが、日本のあらゆるところに蔓延しているのではないかと思う のだ。

例えば、日本の経済力も1980年代に頂点を迎えたが、その後、バブルの崩壊という大きな傷を負い、その後15年近くを経ても、それはいまだ癒えていな いという厳然たる事実と、私が今回言及している組織力の低下とは、決して無関係ではないということだ。

また、組織として、ある目的を達しようとすると き、組織を構成する人間の情熱や士気といった無形のパラメターが、しばしば、その成否に大きく関与するものである。

この組織力の低下、士気の低下という実 質的な現象だけでなく、そういう情熱や士気と言った精神論自体を軽視ないしは排除する風潮が強い。最早、「根性」やら「忍耐」といった言葉は死語となりつ つあるのは衆知のとおりだ。

こういった組織力の低下や、最近よく耳にする「人間力の低下」といったものが、バブルの深傷から立ち直れない大きな要因であると私は考えているところで あるし、合唱という集団性というものさえも、若年層の忌避の 対象となっていることは、若年層が会社組織にとらわれないフリーターに走るデータを見れば、就職難を差し引いても、大方はずれていないのではないか。

このような地盤変動・・・。

それは、必ずしも個人の力の絶対的な低下をすぐには意味しないだろう。現在、個性の伸張の名のもとで行われてきた戦後教育を受けた世代が世間の大勢を占め るようになった。その教育の小さな歪みが、今になってようやく滲出してきて、社会のあちこちで弊害を及ぼし始めているように思えてならない。(もちろん、 敗戦国として、連合国の狡猾で深謀な占領政策に籠絡されたという一面も見逃す事は出来ないが、またの機会に論じることとしたい。)

個人を優先するあまり、利己主義と取り違えるケースも増えてしまった。(それと既出のとおり、「楽しい」と「楽」をはき違えるケースも多い訳で)そして、子供達を自己中心的にし、社会的にうまくゆかないことがだんだんわかってきた。ご存知のとおり、少年犯罪などは悪化の一途をたどっている。

そこで最近、「公」というものの見直しが進んでいる。子供は地域としても教育すべきものではなかったか等々、従来の価値観に疑問が投げかけられ始めてい る。街づくりの視点から、地域文化の復興、商店街や町内会や隣組の利点も見直されつつある。これは必然の流れであろうが、ここに来て、「公」に根ざした 「個人」という立場が、今更ながらクローズアップされつつあるということに、一筋の光を見出した思いである。

人間として生まれたからには、社会とのつながりを避けては通れない。そして、合唱は一人ではできないのだ!

話がそれてばかりで恐縮だが、合唱団と個人の関係も、このような時代のうねりと切っても切り離せない関係なのだと、強く思う今日この頃である。

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発声について

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11月 012004
 

前橋男声合唱団では、毎回正味3時間の練習時間の中に、1時間という発声練習の時間を割いている。
発声練習は、合唱団員としてのルーティンワーク であり、芸術表現の道具としての声を磨き鍛えるという、
合唱にとって最も大事な作業の一工程であると言える。

だが、合唱というと声楽的技法が全てのように 論じられがちで、
それが日頃の一般合唱団の練習の中で闇雲に実践される傾向にあると、日頃感じているのは私だけではないだろう。
そもそも合唱とは読んで字 の如く、「合」わせて「唱」うことである。
この「合」と「唱」の両分野のそれぞれに、具体的な技術論が確立されて然るべきなのではないだろうか。

 私は、合唱を通して音楽の高みを目指すために修練すべき能力は、要約すると次の2項目にまとめられるのではないかと考えている。

 1.声楽的に自在の音を表現する力
 2.演奏状況の瞬間瞬間を聴取・把握し、臨機応変に修正する力

大別して1.は「唱」に関する技術で、2.が「合」に関する技術とでも言えようか。具体的には、
1.は、まさしく声楽的技法そのもの。
2.は、ピッチの高低や音色などを瞬時に聴き分け、テンポやピッチがずれたときに、どのように補正すべきかを判断する力である。

 こうして考えると、我々が練習毎に打ち込んでいるところの発声やら呼吸は、
1.に属するわけで、合唱をするために修練すべき能力の、一部分に過ぎないこ とがわかる。
だから、もっともっと2.に、目を向けるべきなのではないかと思うのである。

たとえば、”A”という人間が、抜きんでて秀でた声の持ち主であ り、ある合唱団に属していたとしよう。
もし、その人間に2.の能力が備わっていなければ、
当然、ハーモニーのバランスは崩れ、合唱演奏に損害を与えること になってしまう。

声量が大きく、影響力の大きいメンバーなら尚更である。実はこれが、ソリストとして声楽的には優秀でも、
合唱団員として拙いという好例な のである。
こういう1.ばかり優秀な人間に限って、合唱団内では一目置かれた存在となり、
全体のハーモニーの障害となっていることに、本人だけでなく指揮 者でさえ気がつかないことがあるものなのだ。

ただ、具合の悪いことに、(ここが厄介な話なのだが)1.及び2.それぞれが独立事象というわけではなく、
むしろ、2.の能力は1.がある程度会得され ていないと、
効果を発揮し得ない性格のものであることに注意をしなければならない。

たとえば、演奏中にピッチがずれていたのを本人が感知しても、それを修 正可能な技術を身につけていなければ、
折角の2.の能力は意味を為さなくなってしまうという事なのだ。
こういう特殊事情が故に、場合によっては、良い声至 上主義に陥り、
前述の例では”A”という合唱団員をますます増長させ、団の環境を悪化させる結果を生んでしまうなんてことは、
世の中の合唱団ではありふれ た話なのではないか。

もちろん、演奏機会を数多く経験することができ、修羅場(?)もある程度くぐり抜けていけば、
この2.の能力は高まることだろう。
でも、それは、元々、 2.に素養のある人々の話である。そうでない人にはどうするか…
個人の育ってきた生活環境や文化的環境がこれらに与える影響は大きいとはいえ、
その相関グ ラフは必ずしも右上がりではなく、
単に合唱の訓練方法の定番である1.が、やっと2.の能力を引き出す補助をしている…
というのが現状なのではないだろう か?

私が主張したいのは、合唱技術のポピュラーな訓練法として定着している、い
わゆる発声練習というものを、1.という枠だけにとどまらず、
2.の習得を明 確に目的化したものにすべきであるということである。

つまり、ソリストとしての声楽的技巧だけではなく、合唱を前提とした総合的な声楽的訓練手法の確立の 必要性である。
もちろん、発声猪突猛進型でも2.についてそれなりの成果は得られるだろうが、
指導者層がもっと2.を高めようと意識するのとしないのとで は、結果には必ず違いが出てくるものと思うのだ。

仕事に家庭に多忙の社会人合唱団が効率良い練習を企図するとき、
1.はもちろん、2.について日頃から鍛錬できるような方法はないものか、、、今後も考 えていきたいと思っている。

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音楽は楽しくあるべきか

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10月 012004
 

以前より本稿では、音楽における「楽しさ」と「楽なもの」の意味の違いについて、何度となく言及してき た。いや、そんな事はとうにわかっている、音楽を究めようとすれば、多少の苦難が付き物なのは当たり前だ…と、良識的な貴方はきっと答えることだろう。

し かし、どうだろう。日本国内の世間一般の見方として、「音楽は楽しくあるべき」という論調が支配的なのではないだろうか。

もちろん、音楽が楽しいに越した ことはない。更に一歩踏み込んだ表現で「楽しめなくては音楽ではない」とさえ言い切る場合さえある。

音楽とは音を楽しむべきもの…などと、音楽を目の前に して(それはえてして、音楽的・技術的な壁にぶち当たって、自己を無理矢理正当化する場面に多い)いちいち呪文のように唱えている国は日本くらいなのであ る。

そういった論調を大いに肉付けする事例がある。楽典を重視しクラシカルで保守的な学校の音楽教育のことを、これは「音学」または「音が苦(おんが く)」であり「音楽」ではない!などと、大見得を切って否定的にバッサリとやる場面である。

音楽理論や楽典にとらわれず、自身の才能のみでスーパースター にのし上がった音楽家は確かに存在するが、稀有な例と言うべきで、例外と考えた方が教育上安全であると判断するのは至極当然ではないだろうか。

こういう見 方というものは音楽の大衆化という側面から、日教組による反政府闘争やメディアの発展と歩調を同じくして、特に戦後の世間からは確かに支持され、結果、我 々は誰でも大衆音楽を身近なものとすることができた。

しかし半面、音楽とは何か?という本質論から目をそむけさせてきてしまったのではないだろうか。快楽主義一辺倒の方向へと誘導して来た人々が存在することは確かなのである。音楽と相対する場合、最初から、「楽しくあるべき」と考えることに無理はないだろ うか?今回はこれについて考察したい。

巷に氾濫する「音楽は楽しくあるべき」という、聞き心地のよいこのフレーズには二重の過ちを含んでいると、常々私は考えている。

まず1点目だが、大体において、一口に「楽しい」やら、「楽しむべき」と言っても、「楽しい」という事は一体どんな状況を指すのだろうか?個々人の主観 にはそれぞれの違いがあるのではないか。

合唱練習を例にとれば、練習中に指揮者にミソクソに罵倒されたとしよう。その際、団員の感じ方も一様ではなく、そ れぞれ異なるものだ。こんな目に遭って、もう音楽はこりごりと思う者もいれば、そんな厳しい状況ですら「楽しい」と感じる者さえいるだろう。

だから、「楽 しくなければ音楽ではない」などという、一見普遍的な真理に思えるこの命題は、実はかなり曖昧な人間の感覚を根拠にしているということがわかる。

そんな命 題は所詮、個人の内面の仮想世界でのみ完結される性質のものなのである。趣味が多様化し、個人の価値観が細分化してきている今日では、合唱団のような集団 内では、「音楽を楽しもう!」との合い言葉は短期的な団の求心力になりはするが、この命題への過度な信仰が長びけば、長期的にはメンバーそれぞれがいずれ 同床で異夢を見ることとなるのは火を見るより明らかであり、これが、近年の合唱活動を長期低落させてきた元凶ではないかと疑っている。

蔓延するこういった 偽の真理がどんな音楽環境であれ、(実は半面は当たっているのだが)堂々と認められてしまっている状況に、漠然とした危機感を私は覚えるのである。

次に2点目。これが今回の主題であるのだが、音楽とはそもそも楽しいものなのだろうか?

「音楽」とは、音を楽しむという意だと受け取りがちであるが、そ れは俗説であり実はそうではないのだ。漢和辞典(角川書店編=「漢和中辞典」)で”楽”を引くと、『音楽を奏する意から、たのしむ意となった』とある。

音楽を奏することによって沸き上がる感情・・・これが愉快であったことから転じて、「楽しむ」と字をあてたのである。

音楽を演奏したり鑑賞したりした時に、 『結果として』楽しいかどうか・・・ということなのである。ここまで調べるだけでも、「音楽」という熟語の本意は”奏でられた音そのもの”であり、少なく とも音を楽しむという人間の行為としての意味ではないことが容易にわかろうというものだ。

そもそも、「音楽」って単語が勘違いのもとなのかも知れない。この場合の、”楽”は、「雅楽」「器楽」と同様の意味なのは言うまでもない。「楽隊」という熟語が、何やら楽しげな一隊という意でないのと同じである。音楽 が楽しいかどうかは、当事者の主観によるのであって、それを一般化して話をすることはきわめて危険な事であることを、ここでは強く指摘しておきたい。

試しに、「音楽とは音を楽しむ…」などという短文をGoogleあたりで検索してみると、これに肯定的なサイト(またはページ)が320件余り…、否定 的なサイト(またはページ)はたった1件しかヒットしなかった。このことからも、音楽=音を楽しむの意として広く受け入れられていることがわかる。

肯定的 なサイトは、音楽産業や音楽専門教育機関、音楽教室等によって営まれており、「音学ではなく真の音楽を・・・」などと、ネット上で客を得るための恰好の宣 伝文句として使われていた。

また、サイト管理者がプロ・アマを問わず音楽系の仕事に就いている者の場合、技術的な壁にぶち当たった場合などに、「でも、音 楽は音を楽しむものだと思い直して…」などと、自らの掲示板やブログで自己弁明の目的で使っている場合が多く見られた。

前パラグラフでは、危険性があると 述べたところだが、ネット上では既に実害を及ぼし始めていると見た方が賢明なのかも知れない。

音を楽しまないかい?という甘い誘いに乗って、ある人は音楽 的な壁を乗り越えられずにこんなはずではなかったと嘆くだろう、またある人は、壁を乗り越えないことこそアマチュアリズムの真髄と、逆に胸を張って見せる だろう。

音楽の芸術的な面とは相容れない商業的な匂いと不純な動機が見え隠れしては、こうなって利を得るのは誰か…?などと、勘ぐりたくもなる。いずれに せよ、この辺りが、すそ野は広いが頂点が低いと揶揄される日本の音楽水準たる今の限界なのかも知れない。

「音楽とは何か?」という抽象的な大命題に対し、言葉で表現し尽くそうとすることには元々無理があるし、およそ無意味なものである。

この至上命題につい ては古今東西を問わず、幾多の音楽家がこれに答えようとしてきた。その答えこそが彼らの生み出した作品そのものなのであり、それは音楽を通してしか表現で きないものであったから。

だから、音楽は楽しくあるべきなどという極めて限定的な一側面は、音楽を志そうという者にとっては良い道標にこそなるが、音楽と いう深遠な抽象の渦の前では、やはり意味をなさないと言うよりほかないのである。

音楽という得体の知れぬ宇宙を語るとき、そこにはエンターテインメント性が極めて高く、容易に商業主義と結びつきやすい部分が必ず存在するものだ。しか し、ごく一部を占めるに過ぎないその部分にだけスポットライトを当て、それが音楽の全貌であるかのように主張する論調には、今後も反論し続けていきたいと 考えている。

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