「オレ一人くらい居なくても、大丈夫だよね!?」

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今回のお題目は、仕事やプライベートにおける何らかの都合で、演奏会に乗れなくなったり、練習に出られなくなる場合などで、その当人が、去り際に口走る セリフの代表なのである。(とはいえ、それを槍玉に挙げようとかいう意図は全くないので、最初に断っておく)

本人にとっては、自らの罪悪感を少しでも打ち消すための一方便でしかないのだろうが、そんなとき、私は長嘆息を禁じ得ない。「いえいえ、そんなことはないですよ!○○さんがいなければ、大打撃です…」と、先方には社交辞令にとられかねない言葉で応じる。しかし、それは決して社交辞令なのではなく、いつも裏表のない本心なのだ!

そして、やがて私は立ち上がることが出来ないほど大いにショックを受ける。そのお方に、歌唱力や声量がどんなにあったとしても、その損失はさしたる問題で はない。要は、合唱に対する考え方の、最も重要な根底部分について、『ああ、今まで一緒にいながら、この人とは全く違っていたのだ!』という厳然たる事実を突きつけられるほど、大きい衝撃はないからだ。

よく合唱は城の石垣に例えられる。大きい石や小さい石、ごつごつした石、丸くてなめらかな石…、コケの生えた石、切り出されて間もない新しい石…、様々な石が組み合わされて、石垣はできあ がっている。

それは、合唱(団)というものが、いろんなタイプの人間からできあがっていることを、象徴的に表していることは言うまでもない。全く誰が最初 に言ったのか、この例えにはただただ感心するよりほかはないと、常々思っている。

合唱に限らず、組織形態をとる様々な集団というもの…、人間が集団としてある目的を遂げようと意図するとき、やはり、「城の石垣」のフォーメーションは 最適な陣形なのであろうか。そこには長い歴史の中で人間が組織的に行動する際に必要な知恵が、システム化されて詰まっている。

個性がぶつかり合わざるを得ない集団という枠の中で、数多の主張や議論が調整、そして集約され、最大の力を発揮しうる石垣という構造。構成する石にはそ れぞれ、外力を受け持てる屈強な部分と、逆に壊れやすい軟弱な部分とがある。

世に言う「適材適所」という言葉の所以である。それを職人芸のセンスを持つ指 揮者の慧眼によって、絶妙なポジショニングで使い分けられ、組み合わされている。

石の強度や特性も、時と場合によって異なり、構造を強く保つために場所の入れ替えもするなど、長期的な視点に立った、根気強いメンテナンスが必要だ。そして一定秩序のもと、それぞれが上方からの加重を分担し、持ち場を守り、きちんと役割を果たしていくことにより、石垣は堅牢・重厚となり、美しささえ発揮 していくことになる。

それはまた即ち、構成する石のうち一つでも欠ければ、石垣全体に重大な危機をもたらすということも意味する。なぜなら欠けてしまった石と、サイズや特性 等が同一の石などこの世には存在しないからだ。下手すれば、基礎部分からの設計施工のやり直し…、なんてことも覚悟しなければならない。

以上、合唱とこの石垣の話は必ずしも必要十分に完全一致はしないのだが、私はおおむねこのように考えているところである。だから、表題のようなセリフ は、特に私にとって、なにやら別世界のフレーズに聞こえてきてしまい哀しいのだ。そして哀しみに打ちひしがれながらも、そのフレーズを噛み締め、私は、一 度は去って行ったあなたを、首を長くして待ち続けるしかない。

個人の価値観が多様化し、それが尊重される時代となった現在、実は表題の言動自体、当たり前と言えば当たり前すぎる現象であるのだが、集団芸術とし ての合唱にとって、危険なにおいを感じ取ってしまう。それは、前述の石垣の組合せの是非というより、もっと根本部分に関する事だ。

再び例え話になって恐縮だが、案外上手く説明できるので引用する。地上に石垣を構築しようとした場合、まず問題になるのは、その地盤の程度であること は、土木の専門家でなくとも想像がいくだろう。軟弱地盤上には、いくら立派な構造物を設計したとしても、実際に建設する事がかなわないことは明白である。

私は、特に最近、この地盤の様子が変わってきている・・・、いわゆる組織力の低下というものが、日本のあらゆるところに蔓延しているのではないかと思う のだ。

例えば、日本の経済力も1980年代に頂点を迎えたが、その後、バブルの崩壊という大きな傷を負い、その後15年近くを経ても、それはいまだ癒えていな いという厳然たる事実と、私が今回言及している組織力の低下とは、決して無関係ではないということだ。

また、組織として、ある目的を達しようとすると き、組織を構成する人間の情熱や士気といった無形のパラメターが、しばしば、その成否に大きく関与するものである。

この組織力の低下、士気の低下という実 質的な現象だけでなく、そういう情熱や士気と言った精神論自体を軽視ないしは排除する風潮が強い。最早、「根性」やら「忍耐」といった言葉は死語となりつ つあるのは衆知のとおりだ。

こういった組織力の低下や、最近よく耳にする「人間力の低下」といったものが、バブルの深傷から立ち直れない大きな要因であると私は考えているところで あるし、合唱という集団性というものさえも、若年層の忌避の 対象となっていることは、若年層が会社組織にとらわれないフリーターに走るデータを見れば、就職難を差し引いても、大方はずれていないのではないか。

このような地盤変動・・・。

それは、必ずしも個人の力の絶対的な低下をすぐには意味しないだろう。現在、個性の伸張の名のもとで行われてきた戦後教育を受けた世代が世間の大勢を占め るようになった。その教育の小さな歪みが、今になってようやく滲出してきて、社会のあちこちで弊害を及ぼし始めているように思えてならない。(もちろん、 敗戦国として、連合国の狡猾で深謀な占領政策に籠絡されたという一面も見逃す事は出来ないが、またの機会に論じることとしたい。)

個人を優先するあまり、利己主義と取り違えるケースも増えてしまった。(それと既出のとおり、「楽しい」と「楽」をはき違えるケースも多い訳で)そして、子供達を自己中心的にし、社会的にうまくゆかないことがだんだんわかってきた。ご存知のとおり、少年犯罪などは悪化の一途をたどっている。

そこで最近、「公」というものの見直しが進んでいる。子供は地域としても教育すべきものではなかったか等々、従来の価値観に疑問が投げかけられ始めてい る。街づくりの視点から、地域文化の復興、商店街や町内会や隣組の利点も見直されつつある。これは必然の流れであろうが、ここに来て、「公」に根ざした 「個人」という立場が、今更ながらクローズアップされつつあるということに、一筋の光を見出した思いである。

人間として生まれたからには、社会とのつながりを避けては通れない。そして、合唱は一人ではできないのだ!

話がそれてばかりで恐縮だが、合唱団と個人の関係も、このような時代のうねりと切っても切り離せない関係なのだと、強く思う今日この頃である。

 

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