OB合唱団の憂鬱

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先日、東西四大学OB演奏会(いわゆるOB四連)が大阪で開かれた。

ここ数年、OB合唱団もしくは、OB演奏会等の結成ないしは開催の話で かまびすしい。そこには、かつての大学男声合唱界そのままのローカルな世界が待っている。往年の名手達が集い、今もまだまだ健在である歌声を披露して、聴衆を魅了し、あるいは、驚異的な音圧で圧倒し、非日常に連れ去ってゆく。

私は、旧交を温めたり、懐古の情にひたるOB演奏会のあり方を否定するものではない。

東西四大学といえばご存じのとおり、一時は国内の男声合唱シーンをリードする存在であった。

私の大学時代は微妙な憧憬の気持ちと共に、遠くから彼らを眺めていたものであり、四大学を中心としつつ、国内には同心円上に幾つもの似た志向の男声合唱団やグリークラブが、群雄割拠していた時代であった。

たまたま、私の母校の男声合唱団では、 (アンチテーゼを唱える者はいずこにも存在しうるのは必然だろう・・・) 四大学の演奏思想やマネジメントに異論を持つ流れが、指揮者や技術陣の中に確かに存在し、たとえそれが、やっかみや嫉妬といった、いささか幼稚で感情的なところから発していたとしても、彼らとは明らかに異なるアプローチを実践していたように思う。

したがって、そのような精神の中で育まれた私としては、四連というものに対し、ある種倒錯した感情を抱きがちであったし、今もその影響を受けていると認識してはいるが、 これまで四半世紀もの間にいろんな男声合唱と接するにあたり、一つの結論に至っている。

それは、OB合唱団に対して、現役時代に律していた秩序と相似なものを持ち込んでも、所詮は、良くとも現役時代の焼き直しに成功する程度で、創造という域にはほど遠いという事だ。(今回のOB四連演奏会がそうだと言うわけではない・・・為念)

同じ釜の飯を食った者同士の声は、数十年の時を経ても意外に交わりやすいものだ。しかし、そこが逆に落とし穴なのである。その気持ちよさで全ての思考が停止してしまうケースには事欠かぬ。

そこにきて、力業で歌いっぱなしの男声合唱への欲求、そして圧倒的な音圧の刺激を求める聴衆の存在。ここに、表面的な音楽の取引を求める需要と供給の関係はまんまと成立し、思考停止は正当化されるのだ。

確かに、音楽業界を支える市場として、この層の存在は必要だろう。しかしながら、合唱指揮者層にそれを追認するぐらいしか能がないところに、現在の男声合唱界の悲劇があるとは言えまいか。

かつての合唱コンクールでならした世代が社会の第一線をリタイヤし、第二の人生として、再び男声合唱を志向する動きは活発化している。男声合唱の復興・隆盛のためには母集団が大きいことに越したことはないので、個人的には一応歓迎はしてはいるところだ。

ただ、こうした数多のOB合唱団活動のカオスの中から、いずこの団体が頭一つ抜きん出て、創造的な演奏を聴かせることができるようになるのか、全国の指揮者層を俯瞰するに、今の私は溜息をつくほかないというのが現状なのだが、とはいえ、裾野の拡大傾向の中に、一縷の望みを実は託していたりするのである。

 

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