「共感」という名の人間関係に依存した合唱団の危うさ

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合唱団が人間社会の一つのコミュニティとして機能していることについては、以前ここでも触れたとおりである。一つの団に所属し、長く運営に関わっていると、実にさまざまな人間模様を目にすることになる。

とりわけ印象に残るのは、団員が活動の第一線から離れていく場面――退団や休団に至る過程である。そこでは、合唱に対する考え方のちょっとしたすれ違いや思い込みが露呈する。大きな事件でなくとも、こうした行き違いは、これまで在籍した団員の数だけ存在してきたと言っても過言ではないだろう。

個別の極端な事例については別に記してきたが、それらの底流に共通している要素を一言で表すなら、「共感」という言葉に行き着くように思う。

人間関係を円滑に保つ上で、感情を分かち合うこと、気持ちを汲み取ることは確かに重要である。相手の立場に立とうとする姿勢は、集団活動を支える潤滑油でもある。合唱のように、互いの音を聴き合いながら成り立つ活動では、なおさらそうだろう。

しかし問題は、「共感」そのものではなく、それを人間関係の唯一の基盤であるかのように扱ってしまう点にあるのではないか。

共感を中心に築かれた関係は、ときに距離が近づきすぎる。期待が大きくなり、「分かってくれて当然」「これだけやっているのだから理解されるはずだ」という思いが膨らむ。順調なときは強い結びつきになるが、歯車が少し狂うと、

「自分ばかり負担している」
「事情があるのに分かってもらえない」
「努力が報われない」

といった感情が生まれやすい。こうした思いが積み重なると、やがて被害者意識に変わり、団の空気を濁らせる火種にもなり得る。これは珍しい話ではなく、どの団体でも起こりうる構造的な現象だろう。

繰り返すが、共感を軽んじたいわけではない。むしろ、それは大切な力である。ただしそれは、自然発生的に無限に湧き出るものではなく、時間と労力をかけて少しずつ積み重ねるものだという前提を忘れてはならないのではないか。

相手を理解することは、本来かなり骨の折れる作業である。価値観も生活環境も違う人同士が集まる合唱団ではなおさらだ。「言わなくても分かるはず」という期待より、「分からなくて当たり前」という出発点の方が、実は健全なのかもしれない。

経験を重ねた世代の役割も、ここにあるように思う。音楽的な技術や解釈の深さを伝えるだけでなく、集団の中で適切な距離を保ち、感情と実務を切り分け、関係を長く持続させる術を、背中で示すこと。それは派手ではないが、団の安定にとって極めて重要な財産である。

人情に厚い土地柄と言われる地域では、なおさら「気持ち」を重んじる傾向が強いのかもしれない。それ自体は美点だが、それだけに依存すると、かえって関係が不安定になるという逆説もある。

新年早々、音楽そのものの話題ではないが、最近の合唱団の空気を見ていて浮かんだ素朴な疑問がある。私たちはいつの間にか、「共感があって当然」という前提の上に人間関係を組み立て、その期待が崩れたときに傷つく、という循環を繰り返してはいないだろうか。

共感は出発点ではなく、結果である。時間をかけ、時に忍耐を伴いながら、少しずつ育てていくものだ。その重さを引き受ける覚悟なしに「分かり合えるはずだ」と夢想することの方が、実はよほど危うい。

合唱という共同作業を長く続けるために、いま一度その前提を見直してみたいと思う。

 

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