楽譜に書き込むということ(その1)

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梅棹忠夫氏は著書『知的生産の技術』の中でこう述べている。(改行は筆者)

 「ものごとは、記憶せずに記録する。はじめから、記憶しようという努力はあきらめて、なるだけこまめに記録する。これは、科学者とはかぎらず、知的生産にたずさわるものの、基本的な心得であろう」

すなわち、人間は忘れるために生きているような動物であるから、それまでに知覚した様々な出来事を、何もかも記憶しておくことはできない。だから記録をする。

紙に自らの文字として書き出すことで、その思想や苦悩等々、様々な問題が浮き彫りになってくるというのだ。

合唱の練習にも、これは当てはまるのではないか。

単に指揮者の指示事項をその都度書き込んでゆくだけで十分だ。その時は100%意味がわからなくたっていい。

指示事項たるキーワードやサジェスチョンの集積を自らの中で消化(昇華?)してゆくことにより、その時間の経過と共に、曲(組曲)というものに味付けがされ形作られてゆく。

そして、団員の内的作業の集積が、団の合唱として更に蓄積集中され、演奏会本番の日に外的エネルギーとして放射されるのである。(なんか宗教めいてきましたな…汗)

だが、ただ書き記せば何でも良いというものでもないところが少々厄介である。例えば、当初から楽譜に f と書いてあったとしようか。実際に歌ったところ、強奏できていない場面で、やむなく指揮者が指摘したからといって、「強く」などと、そういう事をわざわざ書き込んでいる場合はマヌケである。

しばしば、過去の多数の書き込みで元譜が読めなくなるほどの楽譜を見かける。しかも、その方の努力の結晶として賞賛されることがあるが、要は何を書き込んでいるかだ。上に書いたような殴り書きが多数の楽譜では、落書きに等しく、まっさらの楽譜の方がよっぽどマシだ。

また一方で、とにかく書き込むことにより、読譜力が進歩しなくなるのでは、本末転倒だ。全休符と二部休符の区別、D.S.やD.C.といった記号類は基本中の基本である。当分強弱記号等は無視して良いという特別な指示がない限り、最初から自発的にできるようにしたいものである。

稀なケースであるが、指示事項を書き記したことで、安心して思考停止に陥る場合もあるという。言うまでもなく、書くこと自体が目的ではないのだから、指揮者の指示に沿うよう歌唱せねばならぬ。ま、本記事では、そういう些末な話をしているわけではないのだけどねぇ…。

(つづく)

 

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