第58回東西四大学合唱演奏会(その2)

この記事は約4分で読めます。

(つづき)
第3ステージ 無伴奏男声合唱組曲「いつからか野に立って」
関西学院グリークラブ
(作詩:高見 順 作曲:木下牧子 指揮:本山秀毅)

本山秀毅氏といえば、関西を地盤とする合唱指揮者であり、 男声合唱では、同志社グリークラブとの組み合わせは有名である。過去の本演奏会においても、何度となくセッションが行われてきた。

私にとって、今回のKGと本山氏の組み合わせはまさに異色であり、 今回のプログラム中でも、注目してきたステージであった。

関学グリーといえば、これまで、林雄一郎、北村協一、広瀬康夫、太田務各氏のようなOB指揮者が、 長期間仕切ってきたものだが、特に北村氏亡き後は「低迷」とまでは言うまいが、 お世辞にも新たなトーンを打ち出せているとは言えなかったのではないか。

先述のとおり、今年の関学も、その発声はのっぺりとでも形容すべき状況だ。 しかし、本山氏の棒で、全く想定しなかった音楽が流れ始めたのだ。

そりゃ、声だけをとれば、決して良くはない。 しかし、今ある素材を存分に生かす料理でもって、いかに客をもてなすか・・・、 その心こそ音楽表現では必須であり、それを体現していた本山氏を私は評価したい。

主に主旋律を担ったTopにしても、パッサージョへの注意が行き届き、Bass系も、決して喉でがならない。従来の関学グリーによる、伝統的な男声合唱の「型」から脱するという試みでもあったのか。

きっと、練習は困難を窮めただろう。 しかし、本山氏の行き届いたコントロールで、本番でメンバーはその棒に抑圧されるどころか、途中からは、却ってのびのびと歌い出すほどだった。

本山氏も、彼らから引き出せるものは利用し尽くしてやるという腹づもりだったろう。 声の拙さとは裏腹に、情感たっぷりにみずみずしく音楽が流れてゆく。そして、大きく破綻することなく、この曲を歌い切るとは、私の予想は大きく外れることとなったのだ。

私は関学グリーの内部事情を知らないが、今回の本山氏との邂逅を大切にすべきだろうと思う。 ある種の軛(くびき)から放たれて、大きく羽ばたくチャンスである。それは、若者達にとって、何物にも代え難い貴重な経験となるだろうから。

第4ステージ 男声合唱組曲「縄文ラプソディー」 
早稲田大学グリークラブ
(作詩:宗 左近 作曲:荻久保和明 指揮:荻久保和明 ピアノ:前田勝則)

四校の中で飛び抜けて人数が多いのは、トリの早稲田大学グリークラブ。 前回聴いた昨年11月の100周年記念演奏会(こちら)の時の「縄文」と比べるのは酷だが、音楽表現がいささか表面的な方向へシフトした感が否めない。 それはOBを交えず、歌い手が二十歳そこそこの若者だったからか。

それにしても、荻久保氏の大袈裟な指揮は相変わらずだが、 煽り立てる指揮者の要求に学生達はよくこれに応えていたのではないか。

なんと言っても、エールの時でも一目瞭然であった、人数の多さ。 緞帳が上がった瞬間に、聴衆の期待の視線が、ステージ上のグリーメン達に一斉に注がれたのだ。

70人超の筋肉質な声は、確かに音圧という面では他校の追随を許さぬ。 きっと、この部分に焦がれて、毎年会場に足を運ぶファンも少なくないと想像するところだ。

だが、今回私は、関学グリーのステージの直後でもあったこともあろうが、 この大艦から多数斉射された主砲砲弾も、私の心に命中弾を生じさせることはなかったのだ。

曲の本来のテーマであるはずの人間の原始的なものを炙り出そうとするもの・・・、ステージ上に、どす黒い妖しい者共を召喚することは今回はできなかったようだ。

いくら当該曲の作曲者といえども、譜面上に自らの魂を縫いつけてゆく作業と、 親しく棒をふるい、合唱芸術としてまとめる作業とは全く別物であることを悟らせるものであったろう。まさに合唱指揮者の人材難である。 力量のない指揮者が振るくらいなら、作曲者が振った方がマシということを再認識させるには、 価値のあるステージであったろう。

私も若かったら、「早稲田すげぇ」と、一聴のうちにその軍門に降ったであろう。 ずいぶん、ひねくれてしまったものではある・・・。(苦笑)

第5ステージ 「合唱のためのコンポジションIII」 
四大学合同ステージ
(作曲:間宮芳生 指揮:佐藤正浩)

佐藤氏自ら出稿したのだろうか、巷間みかける「草食系男子」という言葉を引き合いに出した曲目解説。なかなか面白い視点での時世の解釈に唸るところがあったのだが、 実際に演奏を聴くに、自らがその「草食系」であることを実証してしまったではなかっただろうか。

「これこそ汗臭い、そして泥臭い部分が表現出来なければ、この曲の本質が見えてこない。」 と、氏は解説の中で言い切っているが、私にはきわめてスタイリッシュな演奏だったという印象が強い。

人数が150人近くの烏合の衆をまとめ上げるのは、よほどの求心力無しでは至難であるだろうが、 ユニゾンをいかにまとめ上げるかが、音楽の質を大きく左右すると私は認識している。

発声面も、人数が多くなることで享受されるメリットは間違いなくあるが、 場合によっては、デメリットが凌駕することも充分あり得る。

結果として、いわゆる泥臭さの滲み出た演奏を指向した割には、型破りな要素に乏しく、 その実、洗練された演奏を指向したのだとしても、フレーズ処理が不徹底に思える部分も多く、その辺のコントロールが今ひとつだったのは残念だ。 しかしながら、やはり、この人数による音圧だけは、特筆に値する体験となるのだろう。

佐藤氏は、引き続き今月下旬の四連OB演奏会で「枯れ木と太陽の歌」を振るという。 氏がやはり述べているように、男声合唱の「原点」とは何か、内省的な演奏となることを期待したい。

 

友だち追加


前橋男声合唱団動画チャンネル随時更新中!!
前橋男声合唱団 Facebook随時更新中!!
前橋男声合唱団 twitter随時更新中!!

 ← Click!!
br_c_1117_1 ← Click!!

 

タイトルとURLをコピーしました