合わせるということ(その1)

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12月 252008
 

ある日、私はいつものように酒をくらい、居所寝をしていたのだった。夜更けにふと目が覚めて、つけっぱなしにしてあったテレビを見ると、寝返りを打った時に、リモコンを背中で踏んづけたらしく、チャンネルが放送大学に切り替わっている。

普段めったに見たことのないチャンネルだが、何かの講義が流れているようだ。なにやらインドネシアの民族音楽か、見慣れない幾つかの楽器を奏でている。楽器の調整悪いんじゃないか、同じ楽器なのに微妙に音がずれてる、、、あー眠いなぁ…、なんて感じでボーッと見ていた。

ふと、手元ののテレビの番組表で確認すると、音楽理論基礎講座とのこと。お題は「合わせることについて」。へぇ~?と思い、広い意味で合唱に関係あるじゃん、と、ちょっと興味をもって見ることにした。

古今東西の代表的な楽器や歌を例に、合奏の意味を探るとでもいったところか。私も初めて耳にした学問で「計量音楽学(cantometrics)」というのだそうな。

アラン・ローマックスというアメリカの民俗音楽研究家が著した書物によれば、この世の「声を出す集団の社会的組織」は次の九つのカテゴリに分類できるという。

1.独唱
2.独唱の交替
3.斉唱
4.不一致
5.指導者と集団の間の単純な交替
6.集団と集団の間の単純な交替
7.指導者と集団の間の交替
8.集団と集団の間の交替
9.有機的な組み合わせ

何だか難しそうなことを書いてしまったが、なんのことはない、当たり前のことである。西洋の教会ミサにおける司祭と信者達が一つの例えだろう。5.と7.や6.と8.の区別がつきにくいが、各々の歌が時間的にかぶっているかどうかの差だけである。

我々の合唱や管弦楽などは9.に属するとのこと。ま、これは大体合点がゆくが。

興味深いのは4.の「不一致」である。番組では例示として、アマゾン奥地の原住民が唱和する録音が流された。

それは、様々な旋律・・・それは決して流麗とか柔和とかいった概念からかけ離れた・・・ともすれば雑然と言おうか、混沌と言おうか。(これは聞いていただくしかないのだ)しかし、その歌声には、人間の声が担ってきた原始的な役割というもの、そして、神々しいほどの一筋の信仰心が宿っていることに心を動かされずにはいられなかった。

ただ、これはリズムだとか、音程とか、そういう次元を超越している話である。もしも音楽の原点というものがあるとしたら、この辺の事なのではないか。

さて、次に例示されたのは、何と日本文化伝統(?)の「長唄」だ。ご存じ長唄は、一人の歌い手(謡い手)の他に、三味線一丁もしくは二丁で行う。

長唄の最初の稽古時は、もちろん一定の拍に合わせて三味線も一体で行うが、熟練するにつれ、徐々に拍頭や音などは完全に一致させなくなるのだという。いや、しかし、その行為自体は、合わせるということに他ならないのだ。

そしてその事自体が、長唄という音楽に趣を持たせてゆく。もちろん、そうする方がより「粋」であるという、江戸時代以来の感性も投影されているのだろうが、それにしても、これらが楽譜には一切書いていないということは、我々の取り組む合唱などと同様。

この件は、

 ここ(2008年11月8日(土)通常練習)や、

 ここ(「暗譜>>譜持ち」ではないです ←理解と盲従は違う)

等で記したとおりである。

いかに「音楽を加える」か…。結局はこの一事に何度も何度も回帰し、そして苦悩する他ないのである。

今年亡くなった大俳優、緒方拳さんの語録に、「演じるということは演じないということに通ずる…」というものがある。

これと同様、音楽においても、似たような事が言えるような気がする。「合わせるということは合わせないということに通ずる」と。

必要十分ではないにしても、大いに参考になる話ではある。そして、楽譜ベタ見の話など消し飛ぶほどの、実は深イイ話なのである。

(つづく…と思う)

 


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 Posted by at 23:52
@Mae_Dan