
本番が近づくと、毎回気になることがある。それは、リアルタイムで歌声を共にしている団員達の視線である。もちろん、本番が近いとはいえ、楽譜を見ること自体は悪いことではない。これまでの指揮者の指摘事項をびっしり書き込んであるし、自らの気になる点もマークアップしてあるだろう手垢のついた愛すべき楽譜…むしろ合唱において、楽譜は常に、とても重要な情報源であり愛着があり、常にパートナーとして行動をともにしたいと思うのは当然かも知れない。しかし、本番が近づくにつれ、どうしても気になる場面が増えてくるのだ。
音を外さないように。
リズムを間違えないように。
そんな意識が強くなるあまり、視線が楽譜に貼り付いてしまうのは当たり前の現象なのかも知れない。すると不思議なことが起こる。
「指揮者が見えなくなる」・・・このことである。
いや、正確に言えば、見えてはいるのだ。しかし細かなニュアンスや呼吸、フレーズの方向性の共有が徹底されにくくなる。結果として、音楽の流れが少しずつ揃わなくなる。音やリズムに慣れ始めても、一皮剥けられないような停滞感に似たあの感覚とでも言おうか。
いっそのこと、一足飛びに暗譜が原則でしょと、こう半強制的にでも団の方針としていただいた方が、団員にとっても面倒はないのかも知れない。
そして最近、そこからもう一つの問いが生まれた。
本番において、譜持ちと暗譜は統一すべきなのだろうか。
私は演奏会マネージャーとして、一定の統一があった方がよいのではないかと、これまでずっとそう考えてきた。一方で、指揮者はこう言う。
「最終的には立ち上がってくる音楽がすべてだ。譜持ちでも暗譜でも構わない。だから強制はしない。」と。
この考え方もよく理解できるのだ。だから私は長い間、前橋男声合唱団においてこの問題に対して答えを出せずにきたのだから。そしてその助言は、これまで我々が自由に合唱に対する考え方をあれこれ巡らすことができた一つの背景であったと、後世述懐することになるのではないかと思うのである。
音楽は本当に音だけなのか
指揮者の言う通り、演奏の本質は音楽である。それはそうだろう。しかし、実際の現場を見ていると気になることがある。譜持ちの人と暗譜の人が混在すると、確かに
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指揮への反応速度に差が出る
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フレーズの方向感が揃いにくくなる
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呼吸のタイミングがばらつく
ことがある。(←いつもとは限らない)もちろん、譜持ちだから悪いわけではない。暗譜していても指揮を見ない人はいるし、譜持ちでも驚くほどよく指揮を見ている人もいる。だから問題の中身は譜持ちか暗譜かの二者択一ではないのだ。だが少なくとも、
全員が同じものを見ている状態と、そうでない状態では、音楽のまとまり方に差が生じる。
これは多くの合唱人が経験的に知っていることではないだろうか。私はこれまで言葉にできないモヤモヤ感を抱いていたが、最近、「視線」もまた音楽の一部であるとの考えに至っている。
視線の方向。
身体の向き。
息を吸う瞬間。
それらは音楽の外側にある付属品ではなく、音楽そのものを形づくる要素である。全員の視線が上がった瞬間、音楽が変わる。そんな経験をしたことのある人は少なくないはずだ。
お客は何を見ているのか
さらに考えてみると、そこにはお客側の視点もある。客は音だけを聴いているわけではない。
舞台上の集中感。
身体の動き。
視線の方向。
そうしたものも含めて演奏を受け取っている。もちろん、
「譜持ちと暗譜が混在しているから違和感を覚える」
とは限らない。気にならない人も多いだろう。
しかし舞台上の視線や動きが揃っているとき、客側はそこに何らかの意志や集中を感じる。逆にばらついているとき、無意識のうちにまとまりの不足を感じることもあるだろう。私はこれを音楽的な問題であると同時に、観客への配慮の問題でもあると思っている。
演奏会は間違いなく我々の奏でる音を届ける場である。しかし同時に、客にとっての一つの体験を届ける場でもあるのだ。
実は昔、私は逆のことを書いていた
ここで少し面白い話がある。私は17年前、まったく逆のことを書いている。もっと楽譜を見ろ、と。当時、団で公式に移動ド唱法を導入した頃だった。楽譜を深く読むことで、
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和声の仕組み
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音の役割
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解決の方向性
が見えるようになる。それは単なる譜読みではなく、音楽の構造そのものを理解する作業だった。当時の私は、
「どこが重要で、どこが自由なのかを読み取ること」
こそが演奏の核心だと考えていた。とはいえ、今でもさほどその考えは変わっていない。
「見るな」と「見よ」は矛盾しない
では、楽譜を見るな。楽譜を見よ。この二つは矛盾しているのだろうか。私はそうは思わないのだ。問題は、
何のために見ているか
だからである。
音を追うためだけに見る。
不安を解消するために見る。
それらは受動的な「見る」だ。一方で、
和声を読む。
構造を理解する。
指揮と照合する。
音楽の意味を探る。
これらは皆、能動的な「見る」である。
同じ「見る」でも、その中身はまったく違うのだ。楽譜を保険として持つのか。音楽を理解するために使うのか。その差は大きいとは言えまいか。
では、本番は統一すべきなのか
最初の問いに戻りたい。譜持ちか暗譜か。本番で統一すべきか否か。
私は今のところ、一定の統一はあった方がよいと考えている。理由は以下のとおり3つ列挙できるだろうか。
第一に、音楽的な統一。
第二に、舞台上の統一。
第三に、観客体験への配慮。
ただし、これは盲目的な暗譜至上主義を意味するわけではないことに留意して欲しい。かといって、必ずしも将来的に譜持ちを禁止したいわけでもない。本質はそこではないからだ。
本来は音楽理解が深まり、指揮への反応が揃い、演奏への集中が高まった結果として、自然に視線も揃っていくべきなのだと思う。
統一は目的ではない。あくまでも結果である。それは、前述の指揮者の考え方にも合致する。
おわりに
譜持ちか暗譜か。こう表題に掲げておきながらなんなのだが、実はこの問い自体が本質論ではないのかもしれない。
事の本質は、我々は何を見て演奏しているのかという問いなのである。
楽譜だけを見ているのか。指揮だけを見ているのか。それとも楽譜に書かれた意味を理解しながら、指揮と仲間と音楽全体を見ているのか。
合唱とは音を合わせる営みである。しかし同時に、意識の焦点を合わせる営みでもあるべきだろう。
少なくとも我々は、「どう聴かれるか」だけでなく、「どう受け取られるか」に対して、もっと自覚的であって良いのではないか。
楽譜を見るな、しかし見よ。
その命題の中に、合唱の面白さと難しさが潜んでいるように思うのである。
今年も合唱コンクールの季節が近づき、まもなく訪れる熱い時間を前に、私はそんなことを考えている。
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