【回想】定演前夜に起きた、ある出来事

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少し前のことになるが、ある演奏会本番の前日に経験した一件が、今でも時折思い出される。

その日はゲネプロ、いわば本番の最終確認の日であった。ホール常設の世界トップクラスのピアノには事前に調律が入ることになっており、小団メンバーの発声練習中にその作業が行われた。約2時間後、調律完了の報告。ここまでの段取りとしては何の問題もなく進み、通し練習の開始を待つのみだった。

やがてピアニストが会場入りし、軽く鍵盤に触れた瞬間、その表情が変わった。低音部――とりわけ最も深い音域に、はっきりとした違和感があったのである。

今回のプログラムでは、その低音が音楽の重心を形作る大切な役割を担っていた。単なる「少しの狂い」では済まされない領域だった。指揮者もすぐに異常を察知し、場の空気が一変した。念のため団員の一人がスマホでピッチを計測すると、数値としても明確なズレが確認された。

しかしホール担当者にこの状況を伝えた際、最初に返ってきた言葉は、
「それは考えにくい」
という冷ややかなものだった。

「世界的なオーケストラの公演時、今日の調律師が担当するくらいの腕がある。そんなはずはない」と。そこには、「アマチュア合唱団の勘違いか思い過ごしだろう」という、明確な決めつけが含まれていた。つまり、その場には音そのものとは別に、「実績」や「信頼」といった無形の前提がすでに存在していたのである。現に鳴っている音よりも、それが優先されてしまう構図であった。

さらにホールから連絡を受けた調律師からも、要領を得ない反応が返ってきた。意図的であったかどうかは分からない。だが少なくとも、「自らの仕事に確信を持って向き合う姿勢」とは異なる空気があったことは否定できない。

そこに透けて見えたのは、ほんのわずかな気の緩み、あるいは「この程度で問題ないだろう」という自己判断、さらには仕事に対する甘さだったのかもしれない。

そしてもう一つ見逃せないのは、それを取り巻く空気である。「プロ」と「アマ」という見えない線、実績の持つ圧力、場の力学とでも言おうか。それらは確かに、こちらの感覚にさえ一瞬の迷いを生じさせるだけの強いプレッシャーで我々に迫ったきたのだった。

それでも最終的に拠りどころとなったのは、指揮者・ピアニストの先生方のみならず自分たちの耳だった。長い時間をかけて積み上げてきた響きの感覚が、「この音では成立しない」とはっきり告げていた。私たちは引き下がらず、その違和感を言葉にし、説明を重ねた。そして最終的には、ホール側も現実の音を確認せざるを得なくなり、異例の再調律が決定されたのだ。(苦虫を噛み潰すようなホール担当者の表情は忘れられない)

作業は、私たちが帰路についた後の深夜に行われた。結果として本番は無事に迎えられたのだった。

それだけを見れば、小さなトラブルの一つに過ぎないのかもしれない。しかし、この出来事が示していたものは、もう少し根の深いものだったように思う。

名前のある人。
実績のある人。
いつも任せている人。
そして「プロ」である人。

人は、そうした存在の前で判断を保留しがちになる。本来であれば耳で聴くべきものさえ、先入観によって処理してしまう。「何が鳴っているか」よりも、「誰が関わったか」が優先される。「なにかおかしい」と感じても、「そうではないはずだ」と自分の感覚を引っ込めてしまう。あるいは立場の差によって、言葉の重みが無意識のうちに変わってしまう。

そしてまた、どのような専門職であっても、そこにいるのが人間である以上、過信、惰性、あるいはわずかな手抜きといったものが完全に消えることはないだろう。

今回露わになったのは、特定の誰かの問題というよりも、こうした「人間の弱さ」がいくつも重なったときに、現場で何が起きるかという現実だったのではないだろうか。これは決して小団だけに起こる特別な出来事ではない。

音楽の世界、とりわけクラシックの分野は、本来きわめて自由であるべき芸術でありながら、同時に権威や慣習と強く結びついてきた歴史を持っている。その中で、肩書きや実績に無自覚に従ってしまうこと、違和感を抱きながらも波風を立てないこと、そうした振る舞いが、知らぬ間に音楽そのものを歪めてしまう。

その危うさは決して小さくない。今回の出来事は、その構造の一端を、偶然可視化したに過ぎない。私たちもまた、その構造の中にいる。だからこそ、目の前で鳴っている「音」そのものだけを拠りどころにし、違和感を簡単に手放さず、必要なときには立ち止まり、声を上げるべきではないか。

その当たり前の態度を保てるかどうかが、音楽の質そのものを左右するのだと思う。音楽は人の手によって作られる。そしてそこには、美しさと同じだけ、人間の弱さもまた入り込む。その両方から目をそらさないこと。それこそが、音楽に向き合ううえでの誠実さなのかもしれない。我々合唱団メンバーにもそれが問われているのだろう。

 

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