男声合唱を長く続けていると、「良い声」とは何か分からなくなる瞬間がある。
若い頃は単純だった。よく響く声。遠くまで飛ぶ声。音圧のある声。いわゆる“声の出る人”が、優れた歌い手なのだと思っていた。しかし、合唱を重ねるうち、次第に別の現実に気づくのだ。
声が立派な人ばかり集めても、必ずしも良い合唱にはならない、と。むしろ、個々の声が強く主張し合い、和音が硬直し、響きが濁ることすらある、と。
逆に、一人ひとりは決して突出していないのに、不思議なほど柔らかく、深く、自然に溶け合う合唱にも出会うことがある。
声の“核”と“質”
高校の生物の授業を思い出してほしい。細胞には核があり、その周囲を細胞質が満たしていると、生物の授業でいの一番にまず習ったものだ。
私は合唱の声にも、それに似た構造があるように思う。
まず、“核”としての要素。これは単に大きな声という意味ではない。音程の中心が明瞭で、倍音構造に芯があり、和音の輪郭を形成する力のことである。
こうした声が存在すると、周囲の団員は音程を掴みやすくなり、和音の重心が定まるものだ。いわば響きの座標軸を作る力である。
しかし、合唱は核だけでは成立しない。そこで重要になるのが、“質”なのである。
ただし、この「質」という言葉は誤解を招きやすい。決して「芯のない弱い声」という意味ではない。むしろ逆だ。“質”とは、周囲との親和性を持ち、音色と音色の隙間を埋め、和音に連続性と粘性を与える能力のことと言えるだろう。
突出しすぎず、しかし存在感を失わず、周囲を滑らかに接着し、倍音同士の摩擦を和らげ、響きの空隙を満たしていく。言い換えれば、核が「点」を作るとすれば、質はその点と点の間を「面」としてつなぐ働きである。この連続性が生まれたとき、和音は単なる音の集合ではなく、一つの空間として知覚され始めるのである。
誰もが核と質を持っている
重要なのは、核と質は「声の種類」ではないということだ。誰もが、その両方を持っている。日常会話の声を思い出せばよい。人によって、
- 輪郭の強い話し声
- 柔らかく浸透する話し声
- 音程感の明瞭な声
- 空気を包み込むような声
それぞれ割合は違うが、誰の声にも核と質の両面が存在している。ただし、歌い始めた瞬間、人はそのバランスを(無意識に)変えてしまう。これが実に難しい。
本来は美しく均整の取れた地声を持っている人でも、歌うと急に核ばかりが肥大し、響きが硬直する人がいる。
逆に、柔らかな地声を持つ人が、歌になると質だけへ流れ、輪郭を失うこともある。
おそらく、「良い声の人」が必ずしも「合唱(歌)がうまい人」にならない理由の一つは、ここにある。つまり合唱とは、単に声質の優劣ではなく、
歌う時に、核と質の比率をどう制御できるか
という技術でもあるのである。
核だけでも、質だけでも、合唱は崩れる
もし核ばかりが集まれば、合唱全体としては硬いものになるだろう。
それぞれの声が独立した方向へ響きを放ち、互いの倍音が衝突する。結果として、「ソリストの集合」にはなっても、一つの音響体にはなりにくいのだ。(もちろん例外もあるが、15年前に某コーラスグループのアンサンブルにあたっての怠慢=歌いっぱなしを批判したのはこれ故である)
反対に、質だけで構成された合唱も危うい。音色は柔らかく混ざるが、歌に勢いが生まれず音楽的な推進力に欠けるだろう。また、和音の中心が曖昧になり、響きが立ち上がりにくくなる。輪郭がぼやけ、遠達性は失われることだろう。
つまり、核と質は対立概念ではなく、互いを成立させる補完関係にあるのだ。そしてもう一歩踏み込めば、本当に重要なのは、役割が固定されていないことである。旋律では核となり、内声では質となる。強奏では輪郭を作り、弱声では空間密度を整える。熟練した合唱人ほど、この移行を無意識に行っている。
「出す」だけでなく、「混ざる」ことができる。さらに、「引く」こともできる。
それは単なる技術ではない。集団の中で、自分の役割を状況に応じて変化させながら全体を生かす――その在り方そのものが、どこか人生に似ているのである。
男声合唱という特殊な生き物
男声合唱ではこの傾向が特に顕著である。
男声合唱は似たような高さ(音域)の声が密集して響き合うため、一人ひとりが主張の強い『核』を出しすぎると声と声がぶつかり合い、響きがギスギスと硬直してしまいやすい。逆に質が不足すると、一体化が崩れやすい。だからこそ、自分の声を周囲と馴染ませる『質』の意識が重要なのである。
本当に優れた男声合唱は、力強いだけではなく、重量感の中に透明性があり、厚みの中に流動性があり、個々の声が独立しながらも、一つの巨大な生体のように呼吸している。
そのような中では時折、自分が「歌っている」のか、「合唱に歌わされている」のか分からなくなる瞬間がある。個人として声を出しているはずなのに、響きはすでに自分一人のものではないような…。隣の声に押され、支えられ、溶け合いながら、全体が一つの方向へ流れていくという感覚。
男声合唱には、そうした集団特有の“うねり”のようなものがあるのだ。
歳月が声に宿すもの
こうした機能の移行を長い時間続けていると、 技術とは別の次元の変化が生まれてくる。声そのものではなく、「他者との関わり方」が変わっていくのである。
若い頃の声には、勢いや輝きがある。だが歳月を経た声には、それとは異なる深みが宿るものだ。
人生の光と影。
成功と挫折。
希望と諦念。
得たものと、失ったもの。
そうしたものが、少しずつ声の中へ沈殿していく。もちろん、音域は狭くなるかもしれない。瞬発力も衰えるだろう。しかしその代わりに、声の一音一音に、若い頃には持ち得なかった分別や諦観が滲み始めるのである。
これは外からは見えにくいが故に一般に感知されにくいだろう。技巧的に派手になるわけでもない。音量が増すわけでもない。むしろ逆で、表現は内側へと沈んでいく。だがその静かな変化の先で、時折、合唱が別の次元へ入る瞬間がある。
それは熱狂ではない…。
達成感とも少し違う…。
どこか枯淡としていて、静かで、しかし深いのだ。静謐と深遠とでも言おうか…。
個々の人生が互いにぶつかり合うのではなく、長い時間を経て、互いの陰影をそのまま許し合いながら共鳴している状態。そこでは、もはや「うまく歌うこと」そのものが目的ではなくなっている。
合唱を通じて、人が人生をどう生き、どう老い、どう他者と共に在るか――そのこと自体が、響きとして現れてくるだけである。
だから私は、合唱とは人生そのものなのだと思っている。ただしそれは、単なる比喩ではない。一つの個体が固定された役割を持つのではなく、 状況の中で機能を変えながら全体を生かす――その営みが、細胞組織にも、合唱にも、そして人の生にも共通しているからである。
若さだけでは辿り着けない場所がある。技術だけでも届かない場所がある。
核と質。
主張と受容。
響きと沈黙。
そのすべてを抱えながら、人は長い時間をかけて、一つの声になっていく。
男声合唱とは、優れた声を競い合う営みではなく、異なる人生を持ち寄って互いを生かし合いながら、一つの生命体へ変わっていく長い長い営みなのかも知れない。
(※本エントリは、中曽根敦子氏の掲げる男声合唱論の一端を、筆者の見方も取り入れ再構成したものです)
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