楽譜に書いていないこと ←クラシック音楽のすすめ

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2008年11月8日の練習で、指揮者が楽譜のベタ見を批判した。それを受けて、私も何度かこれに触れて、それを追認してきたが、今回は、逆に楽譜をもっとよく見るべきであるという話をする。

現在、移動ド唱法で譜読みをしているが、既に団員何人かから、良い反響があった。この移動ド唱法を体験してみて、今まで思いもしなかった事に気付いたというのだ。

例えば、そのパートにだけ頻出する音がある。バリトンあたりなら、主和音に解決する前にファ→ミあたりで終わることが多いし、セカンドなら、シ→ドで解決することが多かったり。ベースは、半分近くがルート音、そして、ファ(下属音)やソ(属音)、オクターブ跳躍が多いですねとか、その他諸々…。

これに気がついただけで終わる方もいれば、更にそれをきっかけに理解を深めていく方もいようが、既に、和声学の基本中の基本を、移動ドを始めて二ヶ月で身体で会得してしまったことになる。

まぁ、こういった曲の構成については、同様なアプローチで様々な曲群と接するうちに、自然にわかるようになる事が多いものだ。(もちろん、楽典と親しめば、更に効果は抜群だが)

そんな事より遙かに重要なこと。それは、その曲の中で、「演奏する上で必ず押さえるべきツボを感知すること」だ。逆にこのフレーズを、「演奏する上で演奏者側に与えられた自由裁量部分を感知すること」と言い換えても良い。

そここそが、普段我々が苦悩すべきフィールドである。練習中の八割九割を、そこでの試行錯誤に費やすべきだろう。

我々の取り組む合唱では、大抵、ある原詩に対して曲を付けていることが多く、ともすると、詩の解釈に神経を割きがちだが、どちらかというと、その優先順位は低い。

しかし、その苦悩すべき場所が分かったとして、果たして最大の演奏効果を引き出すには具体的にどうしたらよいか。

私は、手がかりは古典に親しんで感じるところにヒントがあると考える次第。そう、いわゆるクラシック音楽である。

いやしくも、短くて数十年、長くて何百年もの間、自然淘汰されずに、普遍的な価値を持つとされ、しぶとく生き残るクラシック音楽。これら現存するクラシック音楽群の楽譜には、生き残るための鍵やら痕跡があるはずである。それは何か。

バロック、古典派、ロマン派等々、聴き込んでいけばわかることだが、いちいち、楽譜に記されていないのに、共通事として演奏中に現にやっていることがある。当たり前過ぎて、いちいち楽譜には書かないこととは・・・。

そんな切り口でクラシック音楽を聴くことは、苦痛でしかないので強く推奨はしないが、美術館の絵のように、決して向こうからは媚びてこないクラシック。愛だの恋だの裸だの、刺激的な歌詞などで人を振り向かせようなどと姑息な動機は微塵もない。

合唱技法のエッセンスとしてのクラシック音楽。もちろん、その他のジャンルの音楽や他の芸事、歴史、文学、演劇なんかに触れるのでも構わないが、巷で言うところの「芸の肥やし」を摂取せねばならぬ。その対象は絶対にクラシック音楽であるべきと断言はしないが、その方が遙かに効率的だろう。

クラシック音楽に触れることは、合唱団員にとって、決して無駄とはならないし、特にフィジカル面で衰えを隠せない壮年以上の貴兄には、何物にも代え難い効果をもたらすに違いない。

なにせ、クラシック音楽に親しむことで、「演奏する上で必ず押さえるべきツボを感知すること」ができるようになるのだから。

 

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