創立15周年特集記事(その1)

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前橋男声合唱団にとって今年は何と創団15周年という節目を迎えることとなった。

前回、10周年時には第2回演奏会を実施した。創立時メンバーは既に残っていないのだが、その歴史の流れの中で新しいメンバーが歌心を受け継いできた。

そして15周年の今年、第3回演奏会を開催できたのだった。さて、ここで、別ページにも一部掲載済みであるが、 あらためて、この15年の歩みを振り返ってみたい。

1989年(平成元年)、昭和から平成に年号が変わってまもなく、小山昌人団長(=当時:~2001年在職)を中心とする、7人の男声合唱愛好者(当時は「 7人の侍」と呼んでいたらしい)により、我が団が創立されて、本年で15周年という節目を迎える。

この間、合唱という音楽の位置づけは更に低下し、より特殊化 してマニアックで難解な方向へ進んで来たように思える。

しかし、80年代のカラオケブームを経て、最近のア・カペラ、バーバーショップのブームの到来とともに、男声合唱に対する世間の見方も変わりつつある。

『故きを温めて新しきを知らば以て師たるべし』の言葉のごとく、今までの我が団の歩みを振り返るとと もに、今後の団を展望することとしたい。

 ◆創団、得意、蹉跌・・・失われた5年間(1989~1993)

さて、「7人の侍」によって創団された前橋男声合唱団は、その草創期であった 1990年(平成2年)と1991年(平成3年)に、
小山前団長の母校OBを主体とした「東北大学メモリアル合唱団」と、立て続けにジョイントコンサートを開催し好評を博した。

確かに好評を博しはしたが、前橋男声合唱団が単体で評価されたというわけでなく、合唱後進国・上州の地に、まともな男声合唱を響かせたという事実が取り上げられたに過ぎない。しかし、男声合唱に取り組む集団が群馬にも存在するということを、内外に知らしめた功績は大いに評価されるべきであろう。

こうして、トップテノールであった小山氏が当団を、自身の歌唱力を大きな武器にした県内唯一無二の男声合唱団として注目を集めさせたわけであったが、群馬の地ではまだまだ合唱というものへの深い理解は進んでおらず、県民の音楽的地力の向上が背景となっていなかったことは、この団にとって、大いなる苦難の始まりでしかなかった。

また運営的な面でも、彼を除くメンバー主力が必ずしも男声合唱や音楽経験の豊富な人間とは限らず、メンバー間の人脈も一部の団員の私的なネットワークで構成されていたことは、創立間もない団にとっては不幸なことで あった。

なぜなら彼らが団の運営方針、技術的・音楽的レベル等(しかも、そういった明確な概念は皆無であった)の全てを決定し、ほぼ独占的に取り仕切り、新参者は団の重要決定時に蚊帳の外に置かれるケースが多く、明らかに排他的な傾向があったからなのだ。

全くコネクションのない人間も、県内一の有力男声合唱団に興味を示して次から次へと入団してきたが、こういう閉鎖的なな環境を嫌忌する者も少なくなく、次第に団を離れていくこととなる。

いかに一人の団員の 歌唱力がピカイチでも、所詮合唱は集団で行う芸術であり趣味である。

それ以外の合唱団としての魅力に欠ける前橋男声は、こうして徐々に実働メンバーが減少するとともに団は低迷期を迎え、挙げ句の果てに当時の指揮者も、なんと活動を投げ出してしまうに至り、一時は県合唱祭すら参加できず、事実上の活動停止に陥ったのだった。

男声合唱に興味を持った大勢の人間を惹き付けるることに、戦術的にも戦略的にも失敗したこの時代は、後述するが、「失われた5年間」として、以後、前橋男声合唱団をいろんな意味で呪縛していくことになる のだ。

 ◆中曽根女史の常任指揮者就任、
      諸改革の成功と保守派の復権(1994~1998)

その後、体制改革を成し遂げ新たな求心力のもとで、精細な音楽作りを目指して活動再開を主張す る新世代メンバー(創団後数年を経てに入団した者が多い)の論調に次第に傾いていった 当時の団長は、ついに団の改革に着手する。

当時は『藁にもすがる思い(同団長談)』であったのだろう。まずは、1994年(平成6年)、新たに常任指揮者のポストを新設し、前年より当団の練習指揮者兼練習ピアニストと して 当団ではお馴染みとなっていた、新進の中曽根敦子女史(画像)を 抜擢する。

まだ三十才にも満たない気鋭の指揮者であったが、今までの団の芸風である力業だけの男声 合唱に加えて、女性的で繊細な面をも併せ持つことで、幅広い音楽づくりがができるはずと期待した。

中曽根指揮者の就任により技術的な柱が出来上がると、これと同時に運営面での実務者を置くことが急務の課題として必然的に浮上する。

そして、新たにマネージャー職を新設し、庶務・広報等のマネジメント部門を一 本化して担当職務として当たらせることにより、団の運営面の強化及び改革を図ることとした。

この一環として規約を制定し、団の進むべき道等の重要事項を決定する際は、団員総会等の民主的な手続きによって決定していく旨を明文化し、合唱団としては最低限・・・いや、組織としての初期の形態が整うこととなっ た。

更には団内の活性化を図るため、初めて新聞紙上で団員募集を呼びかけ、外部の血を取り入れ強力に新団員加入を推進し、その成果は1995年(平成7 年)の8名を最高に、多くの新団員を迎えるという形で実を結んだ。

(下の画像は、大量入団後初めて行われた新年会=平成8年新年会での集合写真)

また、技術的な面でも成長の跡は顕著であり、同年6月に笠懸野文化ホールで行われた群馬県合唱祭では、中曽根常任指揮者が男声合唱組曲「柳河風俗詩」を ひっさげ県内デビューを果たした。

まだ未熟さのただようタクトさばきではあったが、男声合唱の持つ迫力と繊細さを、自らの音楽センスだけを武器に、流れとしての音楽を表現しきって聴衆を大いにどよめかせた。

あらためて、名実ともに新生前橋男声合唱団がここに復活したことを、内外に印象づけた大トピックスであっ た。

こうして、団の勢いが戻ってくると、団から距離を置いていた保守派たる旧主力メンバーが徐々に団の活動に復帰してくることとなった。排他的な雰囲気を 嫌って去った者を除いて・・・。

どこの集団組織でもありがちな話であるが、当然、団の主導権を巡って、改革派と保守派との間で確執を生んでいくこととなる。

保守派面々は自分達の不在時にクーデター宜しく、勝手に指揮者の首をすげ替えられ、主導権を握られたことが面白くない。

しかし、(彼らは決して認めようとはしないが)一時的に団を見捨てたという自らの負い目と共に、団復興の功労者は何と言っても改革派なのは重々分かっており、技術的にも、中曽根指揮者の合理的手法を認めざるを得なかった。

創団時メンバーの優越性を誇る以外は、奇妙なバランス(決して緊張関係などという崇高なものではなく)のもと、両派の 一進一退が繰り返されながら、建設的な議論が行われた時期でもあった。

だが、その火種は温存され、そう遠くない将来、青天の霹靂のように、つまらぬ事から 突如決着を見ることとなる。

(つづく)

 

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